本日の東洋文庫今年最初の研究会。参加者は7名。六月二十日(234L11)から六月二十九日(239L5)の途中まで。

小生は久々の出席。

SunitのTenggisのAbatuにお上から賞賜したもの,鑲白のDadaiら八旗官の人事,正黄Yang Šoi jangginの家人Yangjuなど数件の審理案件,ね藩院とトメト都統旗成立の記事などを読んだ。

aisirakū 副理官(ただし,崇徳年間の呼称は未確認のため,順治実録より;乾隆実録などでは「副理事官」)

jakūn hūdai ba 八交易処(八家jakūn booの交易処)

asara 収容せよ(「皮島から連れてきた夫がいない女,母子を収容せよ」の収容することの意味→身の立つようにする;Yanjuが娘を奪い犯したことに対する審理は,「八交易処に各一日晒して殺した」)

崇徳三年時点の八旗官の移動や審理案件では,兵部・吏部・刑部などが,きっちり・細かくルーティンワークをおこなっていたことが分かる。ただ,それだけで当時の清朝に官僚制度が確立されていたとは断定できない。各旗人官僚の主(あるじ)は別に存在していた。

国政にかかわる重要案件は,皇帝を中心に王公などが会議をおこなっていたが,これら会議の内容は記録には書かれていないことも理解しなければならない。

蒙古衙門から理藩院へ六月二十九日には,蒙古衙門を理藩院と定めた(写真下)。しかし,乾隆年間までの記録では,蒙古衙門と理藩院とが併用されているという。

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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。