20130823-1興城は19-30度,晴れ。

待ちに待った2年ぶりの興城行き。というのは最近のニュースで祖大寿の墓碑が発掘され,文廟に移されたと聞いたからに他ならない。祖大寿は研究したいと考えつつ,史料を集めてばかりで進まないのが現状。とはいえ,遼西地域と八旗漢軍の成立を解く上で外せない人物である。

23日金曜日は3時起床。K1113次[4:55北京-10:32興城]で向かう。5時間半は普段の睡眠不足を補うかのように眠りこけた。駅からは歩いて10分で旧城内,そこから3分程で文廟に到着。

順治13年(1656)に死去した祖大寿は北京清河附近の永泰村に葬られたというが,故郷の興城にも墓地が作られた。墓は文化大革命中に破壊され,墓碑は地中から壊れたまま見つかったという。バラバラなまま文廟に運ばれた。大きさは最大で60cm×40cm×40cm位であった。文廟の人に聞いたところ,修復作業をしようにも中途半端に残されているので,現在どうするか保留中とのこと(写真上)。

20130823-2楊蔭芳[纂修]『興城県志』(1927年)の「鎮国将軍祖大寿墓碑文」には以下のようにある。「惟順治十三年八月十五日,皇帝遣永平府知府羅廷嶼,諭祭故精奇尼哈番品級祖大寿之霊。曰:惟爾持身敬慎,秉性成老,方且蒙優。忽焉告殞,爰頒祭葬,用表哀悰,永奠佳城,霊其来享。歳次己亥三月吉旦立」。

最初に見つけた石塊は「順治十三年八月十五……皇帝遣永平府知府羅廷……諭祭故精奇尼哈番品……慎,秉性」で,日付と派遣された知府羅廷嶼の名前から祖大寿のものと確信した。次は西側にある石塊で「老,方且……佳城,霊……三月」とあった。少し離れた西の木陰に「級祖大寿……優。忽焉告殞……享……吉旦」と「祖大寿」と書かれたものを見つけた(写真下)。

ちなみに墓碑から満洲文の存在を確認することはできなかった。合璧でないことは確認済みなことから,満洲文は背面にあるのか,または別に満洲文の墓碑があるのか,はたまたいずれでもないのかは不明である。なお,写真のとおり祖大寿墓碑は野ざらしで,子供が乗って遊びながら小生の作業を物珍しそうに眺めていた。また周囲に説明板はなく,観光客は石碑の周囲を飾る龍の文様の話に終始するのみであった。

帰りの電車の都合で,滞在時間が4時間程しかなく,他には石坊と前回改修中だった薊遼督師府を見学して時間切れ。また鐘鼓楼と南関が改装中。2590次[15:02興城-22:00北京]はほぼ定刻通りに北京に到着した。

紆余曲折な運命を辿った人物に魅力を感じることが多い。人間臭くて謎に満ちた,理解するのが簡単でない人物。そこに研究の醍醐味があるかなw (*´ -`)(´- `*)srsr

☆以前の記事☆
☆八旗漢軍旗人・祖承勲の石碑:中国北京市海淀区:こちら
☆興城古城:中国遼寧省興城市:こちら
☆興城文廟:中国遼寧省興城市:こちら
☆祖大寿石坊:中国遼寧省興城市:こちら