20150907zujiazhuang祖澤溥(1607〜1679年)は祖大寿(1579〜1656年)の実長子。族兄・祖澤潤が祖大寿の後継ぎ(義子)となっており、澤溥は次子として扱われた。

明朝・崇禎帝の時代(1628〜1644年)に北京に出仕、錦衣衛指揮同知に任じられた。祖澤潤(1631年投降)や祖大寿(1631年及び1642年投降)が清朝に投降した後も明朝とともにあり、明朝が李自成によって滅ぼされる(1644年)と南明の弘光政権に属した。その後、清朝に降ると御前一等侍衛となり順治帝の旁らに仕えた。康煕年間には山東総督や福建総督などを務めた。

明清交替期において祖澤溥とその行動を見ることは、祖大寿一族や「祖家将(関寧遼軍)」の政治的・社会的位置づけを考える上で極めて重要である。その祖澤溥は康煕18年(1679)に死去すると順天右安門外草橋に葬られたと『祖氏家譜』に記されている。

遼金城垣博物館のすぐ近く、現在は住宅地となった右安門と涼水河に挟まれた場所のうちアパート3棟(写真の茶褐色3棟)だけに「祖家荘」が冠されており、周囲はすべて玉林西路に属する。ここが祖澤溥の墓跡であることは間違いないが、地名のほか墓が存在したことを示すものは今は何ひとつない。1952年7月に祖澤溥の墓は北京市人民政府文教委員会文物調査組により発掘調査されたが、当時の記録によれば盗掘されておらず、相応の出土品があったようである(周耿「介紹北京市的出土文物展覧」『文物参考資料』1954年第8期)。出土した墓誌は『北京図書館蔵中国歴代石刻拓本匯編』に載せられている。

2015年9月7日踏査 (*´ -`)(´- `*)srsr