朱之韻量攸(朱公書院内)清代、“明朝後裔”に認定され一等延恩侯に封爵された朱之韻箸修亮辺を尋ねた。詳しくは、拙稿「一等延恩侯朱氏的封爵」(『満学論叢』第7輯、2017年12月)を参照のこと。2019年2月24日(日)より3月2日(土)まで中国江蘇省南京・安徽省亳州に滞在した記録。

康熙38年(1699)4月、清聖祖康熙帝は第3次南巡のとき江寧(南京)の明孝陵で祭祀をおこない、「明朝後裔を探し求めて職銜を授け、代々祭祀をおこなわせたい」と述べた。

明孝陵康熙帝は計5回、江寧の明孝陵を訪れ、また全ての明朝皇帝陵墓を保護した。これは漢族文化を尊重する一方で、漢人の清朝に対する敵愾心を取り除くためでもあった。しかし、「朱三太子」事件が絶えず発生し「反清復明」思想が残る康熙年間には、結果として明朝後裔を探し出すことができなかったのである。

雍正2年(1724)、清世宗雍正帝は「明代後裔」6名の中から正定府知府の朱之院鑲白旗漢軍所属)に一等侯の爵位を与えて正白旗に擡旗させ、毎年の春・秋に昌平と江寧(北京と南京)の明皇帝陵の祭祀をおこなわせた。朱之韻鰐逝請賃莉住飴丗經焚Δ了丗垢噺世錣譟科挙官僚として康熙20年(1681)以降知州・知府などを歴任した。

朱公書院康熙30年(1691)に亳州知州に着任朱之韻亮世は民衆に慕われた。6年目に移動になるところを民衆の訴えで延期され、結果として康熙46年(1707)まで足掛け17年在任した。そして、在任中の康熙37年(1698)には北門外に生祠が建てられた。これが現在の朱公書院である。

朱公書院に1時間以上いて中国人ガイドと中国人団体客が何度も通り過ぎたけど、話している内容は朱之韻亳州知州の治世で慕われたために生祠が建てられたという地元優先の話で、彼が明朝の後裔に任じられたことや、『紫禁城の黄昏』に子孫の朱勲が登場するというような清朝や世界史に繋がる話に結びつけたなら、観光客が素通りすることは少ないのではと感じた次第である。

「康熙謁陵紀」碑南京では、江寧織造で曹寅(曹雪芹の祖父;康熙帝の乳兄弟)が康熙帝をサポートして明孝陵(明太祖朱元璋の陵墓)に康熙38年(1699)に建てた「康熙謁陵紀」碑(康煕帝が"明朝後裔"を探し求めるきっかけとなった)と「治隆唐宋」碑や雲錦で知られる江寧織造博物館なども観てきた。亳州は初、南京は四半世紀振りの滞在であった。