tere inenggi

研究(満族史・清朝史・東アジア史)や講義(歴史学・東洋史・中国語[漢語]・コンピュータ)等の備忘録

研究内容

満文講読会[訳編]『内国史院檔:順治元年機

282876217_5516587371714403_8946604697952749566_n満文講読会[訳編]『内国史院檔:順治元年機戞陛豕外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2022年3月)非売品

私が携わった本が出版されました。内国史院檔とは実録の草稿のひとつです。最初は同好会として読み始めたものですが、メンバーの科研費を用いて東京外大AA研より出版されました。順治元年(1644)4月~6月(A)という清朝が山海関を入る前後が収められています(詳しくは「序文」を参照)。

紙媒体は、わずか200冊しかないので配布できませんが、電子版で無料公開されました。ご笑覧頂ければ幸いです。

本冊は、クリエイティブ・コモンズの表示-非営利-改変禁止4.0国際ライセンスですが、著作権内および本会の許可による2次創作等の使用は可能です。

以下のURLより無料ダウンロードできます。
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満文講読会[訳編]『内国史院檔:順治元年機


綿貫哲郎「孫可望及其家族」(2020年12月)

Eso9DjpUYAIlWLG論文を上梓しました。

「孫可望及其家族」(『満語研究』2020年2期、2020年12月、110-114頁)[中国語]

清朝に降った孫可望と子孫は康熙年間になると、その地位を剥奪され没落したと言われて来ましたが、実際には公主を下賜されたり当時の政治中枢部と繋がりをもつなど、ある程度の政治的地位を有していたことなどを検証しました。

「第2届国際満学学術研討会」(2019年9月5日から8日;於・中国吉林省吉林師範大学長春校区)で「降清後的孫可望及其家族」の発表内容が改稿され、研究雑誌に掲載されたものです。 

CNKI→綿貫哲郎「孫可望及其家族」

綿貫哲郎「中国史"論文"の集め方(簡易版)」2019年7月

綿貫哲郎「中国史"論文"の集め方(簡易版)」(『中国史史料研究会会報』創刊号、2019年7月)

中国史史料研究会の会報(創刊号)に、「初学者向け論文の集め方」を執筆しました。会報創刊号は、会員は無料、Kindle版は500円(こちら)です。

創刊号の試し読み(冒頭の一部分のみ:無料)はこちら

51-eFbVg+HL■中国史史料研究会会報 創刊号 内容紹介
目次
●亀田俊和「亀田俊和の台湾通信 第2回」
●佐藤信弥「世界漢字学会 第6届年会 参加報告」
●広中一成「東亜同文書院の変遷」
●綿貫哲郎「中国史"論文"の集め方(簡易版)」
●平林緑萌「前漢功臣伝抄 第1回 奚涓」
●佐藤信弥「中国時代劇の世界 第2回『三国志:Secret of Three Kingdoms』」

■研究ガイドからエンタメまで彩り豊かに
●終戦まで約半世紀にわたって上海を拠点に多数の人材を輩出した東亜同文書院。その簡史をまとめた広中一成氏(愛知大学)「東亜同文書院の変遷」は編集子推薦。
●綿貫哲郎氏(日本大学)による研究ガイド「中国史”論文”の集め方(簡易版)」は、論文や図書の探し方や入手法を初学者向けに丁寧に解説したもの。
●準備号で大きな反響を集めた、『観応の擾乱』(中公新書)の亀田俊和氏(台湾大学)による連載「亀田俊和の台湾通信」は待望の続編を掲載。
●『中国古代史研究の最前線』(星海社新書)の佐藤信弥氏(立命館大学)の連載「中国時代劇の世界」では『三国志:Secret of Tree Kingdoms』を取り上げる。また「世界漢字学会 第6届年会 参加報告」は、ドイツのフリードリヒ=アレクサンダー大学の孔子学院が舞台。トラブル続きだったというが?
●平林緑萌氏(志学社)は前漢高祖功臣のうち、侯第七位に列せられながら事績がほとんど残っていない奚涓とその死後に封国を継いだ母侯疵について考察する。

■中国史史料研究会について
中国史史料研究会は、中国史について興味関心のある方ならどなたでも入会可能。
当会Webサイトは下記URLから。会報準備号も無料でダウンロードできる。
http://shigakusha.jp/hoc/

会報準備号(無料)はこちら:https://shigakusha.jp/product/%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e5%8f%b2%e5%8f%b2%e6%96%99%e7%a0%94%e7%a9%b6%e4%bc%9a%e3%80%80%e4%bc%9a%e5%a0%b1%e6%ba%96%e5%82%99%e5%8f%b7/

創刊号の試し読み(冒頭の一部分のみ:無料)はこちら:https://shigakusha.jp/product/hoc-journal-001/

創刊号(Kindle版のみ:Amazonで有料500円)はこちら:https://t.co/ukNAJ8Rk8p

日本語訳の論文2点(Kindle版)

表紙2点志学社(https://shigakusha.jp/)より、以前、中国語で発表した論文の日本語版をKindle版で出しました(志学者論文叢書)。

Amazonでお求めください。1冊300円です(AmazonのKindle Unlimitedだと無料で読めます。冊子版はありません)。


「祖大寿と「祖家将」再論」 (原載『吉林師範大学学報(人文社会科学報)』2017年第6期、2017年11月→『満学研究論集(一)』(中国社会科学出版社、2018年9月に再録)
Kindle版はこちら

「「降清漢人」から「漢軍旗人」へ:「盛京生まれ」を中心に」(原載『清史研究』2015年第4期、2015年11月→劉小萌[主編]『国際青年学者満学研究論集(2015)』中国社会科学出版社、2017年6月に再録) 
Kindle版はこちら





朱之韻梁跡を辿る(2019年2月〜3月)

朱之韻量攸(朱公書院内)清代、“明朝後裔”に認定され一等延恩侯に封爵された朱之韻箸修亮辺を尋ねた。詳しくは、拙稿「一等延恩侯朱氏的封爵」(『満学論叢』第7輯、2017年12月)を参照のこと。2019年2月24日(日)より3月2日(土)まで中国江蘇省南京・安徽省亳州に滞在した記録。

康熙38年(1699)4月、清聖祖康熙帝は第3次南巡のとき江寧(南京)の明孝陵で祭祀をおこない、「明朝後裔を探し求めて職銜を授け、代々祭祀をおこなわせたい」と述べた。

明孝陵康熙帝は計5回、江寧の明孝陵を訪れ、また全ての明朝皇帝陵墓を保護した。これは漢族文化を尊重する一方で、漢人の清朝に対する敵愾心を取り除くためでもあった。しかし、「朱三太子」事件が絶えず発生し「反清復明」思想が残る康熙年間には、結果として明朝後裔を探し出すことができなかったのである。

雍正2年(1724)、清世宗雍正帝は「明代後裔」6名の中から正定府知府の朱之院鑲白旗漢軍所属)に一等侯の爵位を与えて正白旗に擡旗させ、毎年の春・秋に昌平と江寧(北京と南京)の明皇帝陵の祭祀をおこなわせた。朱之韻鰐逝請賃莉住飴丗經焚Δ了丗垢噺世錣譟科挙官僚として康熙20年(1681)以降知州・知府などを歴任した。

朱公書院康熙30年(1691)に亳州知州に着任朱之韻亮世は民衆に慕われた。6年目に移動になるところを民衆の訴えで延期され、結果として康熙46年(1707)まで足掛け17年在任した。そして、在任中の康熙37年(1698)には北門外に生祠が建てられた。これが現在の朱公書院である。

朱公書院に1時間以上いて中国人ガイドと中国人団体客が何度も通り過ぎたけど、話している内容は朱之韻亳州知州の治世で慕われたために生祠が建てられたという地元優先の話で、彼が明朝の後裔に任じられたことや、『紫禁城の黄昏』に子孫の朱勲が登場するというような清朝や世界史に繋がる話に結びつけたなら、観光客が素通りすることは少ないのではと感じた次第である。

「康熙謁陵紀」碑南京では、江寧織造で曹寅(曹雪芹の祖父;康熙帝の乳兄弟)が康熙帝をサポートして明孝陵(明太祖朱元璋の陵墓)に康熙38年(1699)に建てた「康熙謁陵紀」碑(康煕帝が"明朝後裔"を探し求めるきっかけとなった)と「治隆唐宋」碑や雲錦で知られる江寧織造博物館なども観てきた。亳州は初、南京は四半世紀振りの滞在であった。

綿貫哲郎「正白旗漢軍一等延恩侯朱氏的封爵」(2017年12月)

zhushi論文を上梓しました。

正白旗漢軍一等延恩侯朱氏的封爵(『満学論叢』第7輯、2017年12月、54-68頁、1.5万字)[中国語]

康熙元年(1662)、清朝は南明永暦政権を崩壊させ中国本土の統治を確実なものとした。しかしながら「朱三太子案」が発生するなど「反清復明」思想は依然として残っていた。聖祖康煕帝は清朝への敵愾心をなくすため「明代後裔」を探し求めたが失敗する。ところが世宗雍正帝が即位すると「明太祖の子孫」の認定・授爵がおこなわれた。その目的や選ばれた朱之韻箸い人物について、満漢関係史だけでなく八旗制研究の視点からも考察した。

「正白旗漢軍一等延恩侯朱氏をめぐって」(第23回満族史研究会大会、2008年5月31日、於日本大学文理学部百周年記念館国際会議場)を基礎に、大幅に内容を改めました。

(奥付は2017年12月発行ですが、実際は2018年6月末発行です)

綿貫哲郎「再論祖大寿与“祖家将”」(2017年11月)

zudashou00論文を上梓しました。

「再論祖大寿与“祖家将”」(『吉林師範大学学報(人文社会科学報)』2017年第6期、26〜40頁、2万余字)[中国語]。

30年前の李洵「祖大寿与“祖家将”」を基礎に、祖氏一族の勃興、祖家将の連繋を衛所制と絡め、さらに彼らの八旗漢軍への編入原則等にも言及しました。

2017年6月末、「国際満学学術研討会」(2017年6月28日から30日;於・中国吉林省吉林師範大学長春校区)での発表内容を活字化したものです。 

CNKI綿貫哲郎「再論祖大寿与“祖家将”」

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台北滞在:2月5日(日)〜2月17日(金)

waitan20172月5日(日)から17日(金)まで、資料調査と意見交換のため台湾に行きました。例年より若干余裕を持たせた日程にしました。

約2週間にわたる史料調査(中央研究院傅斯年図書館ほか)や意見交換ではたくさんの史料が手に入りました。

国立台湾師範大学文学院院長の陳先生、名誉教授の呉先生にもご挨拶しました。また旧知の葉先生はじめ、許さん・劉さん・黄さんら若手の研究者だけでなく、私の留学時代の友人、台北に居住・留学する教え子にも会えて濃厚な時間を過ごすことができました(*´ω`*)

12泊中の夕食10回・昼食6回は声を掛けて頂いたので1人ではありませんでした。台中に行く時間はなくなりましたが、ありがたいことです。

台湾中心街を夕方ぶらりと歩きました。以前だと史料調査だけで終わってしまったので貴重な経験です (*´ -`)(´- `*)srsr

12月30日(金)

20161229主催している研究会合宿で愛知県豊橋市・蒲郡市へ。

夏の続きで1泊2日の強行軍。みなの予定を合わせると年末のこの日しか取れず。

最終日の時間ギリギリで当初の範囲を終わらせた。ほっとひと息(๑′ᴗ‵๑)

昼飯で食べた豊橋名物カレーうどん旨かった。ホテル裏にあるご当地名物を出す居酒屋が前後泊含めて一度も入れなかったのでリベンジを誓う次第。

初めて銘菓ブラックサンダーが豊橋名産と知った貴重な合宿w (*´ -`)(´- `*)srsr

10月31日(月)

20161101北海道踏査最終日(3日目)は昨年も行った旧赤煉瓦庁舎の樺太関係資料館。

観光客が多いと思ったら、中国人(東北なまりがあった)だった。

その後、六花亭で買い物をしてレンタカーを返した。レンタカー屋さんが空港から離れているので、早めに返却した後はお土産を買い、空港内の温泉に浸かって疲れを癒やした。

羽田へ着いたのは日没後だった。翌日1限が授業なので、万一に備え埼玉県内の安宿を予約しておいた。20時前にホテル着。夕食食べて早めに寝た。

合計走行距離は3日で1150キロ。直線距離だと東京から屋久島くらいかな (*´ -`)(´- `*)srsr

10月30日(日)

20161030待ちに待ったこの日。2週間以上前から天気予報ばかり眺めていたのは、この日のため。そんな北海道踏査2日目。

3時40分、ホテル出発。6時20分、おびら鰊番屋文化歴史公園(道の駅)着。松浦武四郎銅像と荒れる日本海を前に休憩。鰊漁も江戸期蝦夷を支える産業のひとつで、こういう場所に会所が設けられた。途中、三毛別ヒグマ事件で有名な苫前を通過(復元現地も見たかったが、片道2時間近くかかるのと、今でも本当にヒグマが出る[今年はクマの出没が多い]のでやめた)した。

8時15分に天塩到着。鏡沼海浜公園内の松浦武四郎銅像へ(なぜか布でぐるぐる巻きにしてあった)。ここは江戸初期の松前城下交易時代にはテンショと呼ばれ、東のメナシとともに松前まで蝦夷の交易船が出ていたと宣教師アンジェリスの記録にある。来たかった場所のひとつ。

10時半、宗谷岬到着。言わずと知れた日本最北端の地。気温2度、風速11メートル。残念ながら42キロ先の樺太は見えなかった(写真上)。間宮林蔵渡樺出航の地→宗谷歴史公園の旧藩士の墓前にお供えをし、正午前に開基百年記念塔に到着。今回の踏査のメイン。稚内市北方記念館は今年最後の開館(10月末日まで。月曜休館なため本日が最終日)。塔に登ったがやはり樺太は見えなかった。ただ西に霞んで見えた利尻富士に存在感を感じた。記念館に図録はなかったが撮影は自由だったので、たくさん写真を撮った。コミュニティFMのFMわっぴ〜(http://www.wappy761.jp/・サイマルラジオで聴く)で和んだ。

20161030-2稚内駅前で昼食を済ませ、ガソリンを満タンにして最終目的地へ。天塩山地で雪が降り始めて路上は凍結、また追い抜いたダンプカーに煽られながら、日没直前の15時50分に音威子府村の「北海道命名の地」に到着(写真下)。

そこから旭川まで雪が断続的に降り、真っ暗な見知らぬ道を高速道を乗ったり降りたり(繋がってない)して、260キロ先の札幌まで走った。若干だが命の危機を感じた。20時前に札幌のホテル着。

この日(だけ)の走行距離736キロ。もちろん一人で運転。後にも先にもこれを超える記録はない。後日談だが、数日間頭痛に悩まされることになる。 真田丸を見て、ススキノで夕食をとった。

736キロは東京ー岡山間くらいかな (*´ -`)(´- `*)srsr

10月29日(土)

20161029昨年に続き、北海道踏査の初日。休み期間と金額と博物館開館時期の折り合いをつけると、どうしてもこの時期になってしまう。

早朝便で千歳空港入り。レンタカーを借り(昨年とは別で安くしたら思いのほか時間を費やしてしまった)、午前は新ひだか町静内へ。真歌公園に11時ちょうど着。英傑シャクシャイン像・シベチャリチャシ跡・シャクシャイン記念館・アイヌ民俗資料館・松浦武四郎記念碑を見る。

途中、今夏の北海道を襲った台風で崩れた崖、寸断されて土に埋まったり宙ぶらりんになった日高本線の線路などを何カ所も目の当たりにした。運転しながらだったので写真は撮れなかった。記念館の方との話からは、台風で寸断された鉄道をこのまま廃線にして欲しくないという思いを強く感じた。

また天気がよいと真歌公園の坂道から青森が見えると聞いたのが印象的だった。十三湊(青森県)には蝦夷(北海道)からも交易船が頻繁に来港していたからだ。あいにく青森は見えなかったが、松前や函館のある渡島半島はくっきり見えた。こういう土地に来ると歴史地理を体感できるのが大きな魅力だが、北海道踏査初日でそれを感じている。

午後は白老へ。2020年に国立博物館になるアイヌ民族博物館へ。こちらにも松浦武四郎碑がある。展示史料と民俗芸術(歌など)をコンパクトに上手に見せていたのが印象的。昨年行った二風谷より地理的条件が良いこと(札幌から近いことなど)から観光客が多いと聞いていたが、流行っているのは地理的部分だけではないことも理解できた。

17時半過ぎ、札幌市内のホテル到着。走行距離313キロ。ススキノで夕食をとった。

台風の爪痕深し、蝦夷(えぞ)の行秋 (*´ -`)(´- `*)srsr

5月28日(土)

20160528ルーティンより遅めの5時起床。新長田駅に向かい、神戸出身の漫画家・横山光輝作品で街興しをはかる商店街にて全長18mの鉄人28号のモニュメントと「三国志」の石像などを小一時間ばかり見て神戸大学へ。

六甲道駅よりバスで9時半前に神戸大学滝川国際学術交流館へ到着。ここは9年前の満族史研究会大会での開場予定だったが、直前(2日前)にはしかのため会場変更になった経緯がある。今回はリベンジではないが、景色きれいなこちらでまる一日有意義な研究会に参加した。久しぶりに会う方々もおり、懇親会ではネット上で知り合いながら初対面の大学院生などもおり、やはり来て良かったと思った。

懇親会終了後、細谷良夫先生・張永江先生・加藤直人先生と4人で三ノ宮にて慰労会。9年間に泊まったホテルの目の前だった。22時頃に散会して道路南側のホテルに戻った。

翌日は神戸居留地跡と神戸市立博物館に行く予定 (*´ -`)(´- `*)srsr

5月25日(水)

20160525だいぶ気が張ってる水曜日の朝。

1限は初級、第2課課文日訳と練習問題を終え、第3課へ。場所を表す動詞「在」と「有」を学ぶ。2限は中級、第3課続き。ゝ震篁譴慮同表現、◆崑┿函遡蕁帖廖↓「一点儿也不/没」と練習問題途中まで。

午後はリテラシー。Word2016でのWeb文章の貼り付け。テキストファイルでの貼り付けを覚えてもらい、課題を与えた。夕方は研究実習。よいスピードで1パラグラフ進めた。

夜は張永江氏(中国人民大学歴史学院清史研究所)の講演。「意識形態與清史研究−中美学者囲繞“新清史”的争論」。学生や他学の先生方が参加。その後、懇親会を経て23時頃に帰宅。盛りだくさんの有意義な1日だった (*´ -`)(´- `*)srsr

台湾行き

201602台南2月12日(金)から20日(土)まで史料調査と意見交換で台湾(台北・台南)へ出張。

台北では旧知の葉高樹先生(台湾師範大学)はじめ、許さん・劉さん、台南では村上さんに大変お世話になりました。孫守朋(吉林師範大学;東呉大学に研究滞在中)ともゆっくり話せました。葉先生・孫さんと小生とは専門分野が同じこともあり有意義な意見交換ができました。葉先生には春節休み中にもかかわらず実家から出てきて3日間も小生の相手をして頂きました。学恩に感謝します。

葉先生と共に同分野の大学院生の皆さんと語れたのは収穫でした。一部の院生の論文は読んだことがありましたが会うのは初めてでした。ただ彼らの優れた研究は日本では余り知られていないものがあるので、紹介したり自分の研究に組み込めたらと思います。

当初の予定では日程に余裕をもたせていましたが、台湾入りする前日たまたま国家図書館に小生が以前論文を書いた際に用いた史料(北京:中国第一歴史檔案館原蔵のマイクロフィルム)があるのを知り、その調査で4日間(元の予定は論文のコピーなどで1日間)通いました。もちろん中央研究院にも同史料は購入済でしたが修理中で閲覧不可(日本での所蔵は皆無)。北京ではもう原史料を手に取ることができないだろうと考えていただけに嬉しい誤算でした。国家図書館の当該部署で「満洲語のマイクロフィルムを見た人は初めて(みな中研院に行くので)」とも言われました。国家図書館で閲覧証を作りましたが、研究者ということで「台湾の修士・博士論文」サイトへのパスももらいました。こちらも嬉しい。

201602台湾また台北滞在中の先輩、それから1990年代の中国留学仲間が2人台北で仕事をしており、それぞれ会って昔話に花を咲かせ、ごちそうになりました。全日程、朝から晩まで予定がぎっしりで連絡を頂きながら会えなかった方々もいました。次回はお会いしましょう。

今回は、資金不足から2泊はネカフェ、5泊は風呂トイレ共同(普通のホテルは台南1泊のみ)と体力的にはキツイものでした。ただこれまでの台湾滞在で最も多くの方々(ここに記さなかった方々も含めて)と会って意見交換ができ、また国家図書館や中央研究院(半日だけの滞在)では予定以上に史料・論文が集まったので、研究に活かしたいと思います。葉先生からも宿題を複数頂きましたし。

写真は上が赤嵌楼(台南;せきかんろう)、下が台湾商務印書館(台北)。写真上の石碑には満洲語がある。詳しくは、加藤直人「乾隆帝と台湾の碑」(『月刊しにか』12-3、2001年)を参照。

ネカフェはやはり体力的にキツかったです。すごくコスパ(朝食無料;無料ドリンクバー;交通が便利など)はよかったけどw (*´ -`)(´- `*)srsr

11月29日(日)

20151129ベルナルド・ベルトリッチ監督「ラストエンペラー(1987年作品)」(TOHOシネマズ:新・午前十時の映画祭)を観てきた。

当時、高校2年生だった自分が清朝と満洲族を知るきっかけになった作品。作品中の台詞から民族とか国家とかを意識することになった。インパクトが強く、帰りの夜道いろいろ考え込んだのを昨日のように思い出す。

実際の紫禁城での撮影で話題にもなった。この3年後の留学中に北京及び瀋陽の故宮を見て、現在の研究分野に興味をもつことになったので、今から考えれば自分の研究の出発点といってもよいかもしれない。

昨今、自分の身の回りに起こった出来事のこともあり、今後を見据える上で出発点に立ち戻って考えるべきなのかもしれない (*´ -`)(´- `*)srsr

綿貫哲郎「従"帰附漢人"転到"漢軍旗人"−以"盛京出生"者為中心」

20151125-100綿貫哲郎「従"帰附漢人"転到"漢軍旗人"−以"盛京出生"者為中心」(『清史研究』2015年第4期)

博士号取得直後に書きあげたものであり、国際満学青年学者論壇(2015年9月11日〜13日;吉林師範大学[四平市])での報告が活字化されたもの。

清朝(後金)に投降した清初の高級漢人将校の立場から「満化」について考察したが、初めて結論ありきから紡いでいった論文。ただ結論を元に調べたところ、同じような事例がいくつも出てきたので間違いないと感じた。以前の「安南黎氏佐領編設始末考」同様、人間のやむを得ない部分を取り上げることができて満足している。さらに精進したい。

国際満学青年学者論壇の記事:こちら

今年度の研究成果のひとつです (*´ -`)(´- `*)srsr

9月16日(水)

16日夜に帰国。往路は羽田、復路は成田。リムジンバスまで40分程の待ち時間だったが(20時50分発;聖蹟桜ヶ丘駅行き)、新宿を素通りできるのは大きい。以下、備忘録代わり。

北京での現地踏査4ヶ所(7日・9日)と遼寧省興城市(8日)、「国際満学青年学者論壇」での参加・発表(11日〜13日於吉林師範大学[吉林省四平市];葉赫古城[四平市鉄東区葉赫鎮]・鉄嶺市白旗寨満族郷・哈達古城[開原市古城子村]へのエクスカーションを含む)は予定通りに済ませた。10日・14日は北京−四平の移動、15日は書店(王府井書店・三聯書店[以上は7日済]、中関村図書大厦・博雅堂書店[北京大学構内]・萬聖書園など)を回る。書籍は高騰していて諦めたものが多い。

今回すっかりVPN設定を失念してネット制限を食らう。次回は気をつけよう(追伸:どうやら中国からでも設定できたらしい)。

日程に余裕をもたせたが、学会報告後に降って沸いたように急ぎの仕事が入り、結果的にそれで補填。心残りはVPN(まだ言うか)とエクスカーションの長白山行き(2泊3日)に参加できなかったこと。後期授業が始まっており、これ以上の休講はスケジュール的にきついので断念。

荷物については、乾燥した北京では(四平も乾燥気味)ポロシャツで手洗い・手絞りで翌朝に乾くので、服の持参は2/3でよかった。ティーシャツ2枚、ポロシャツ2枚と寝巻き(ティーシャツと短パン)で9月は十分。洗って回せる。学会用ワイシャツは2枚欲しい。

それから、中国では書籍とお土産さえ買わなければお金は掛からないことを実感。また郵送(船便約9kg)で200元強だった。

2年ぶりの中国は前回より変化が大きかったが、小生自身が基本的な準備を忘れていたりしたことも大きかった。次回はこの備忘録と前回の備忘録を再確認しないといけないな。いや手書きの備忘録もあるんですがね。笑

写真ならぬ動画は興城駅に入線する2590次列車(38秒)、2015年9月8日撮影。

研究成果もできたようなので、前に進もう。

以下、今回の中国行き関連ウエブサイト:お世話になりました(๑′ᴗ‵๑)
☆吉林師範大学満学文化研究所:こちら
  →国際学会開幕式の記事(写真中の右端でカメラを構えたワイシャツが小生):こちら
☆中国人民大学『清史研究』編輯部:こちら
☆吉林師範大学:こちら
☆北京中安賓館(6日〜10日):こちら
☆四平雅頓商務酒店(10日〜14日):こちら
☆北京宝辰飯店(14日〜16日):こちら
☆鉄嶺県白旗寨満族郷(13日):こちら
  →当日の訪問記事(小生も集合写真に写ってますw):こちら
☆楽旅中国(列車チケット;北京−四平東):こちら
☆旅情中国(列車チケット;北京−興城):こちら
☆GLOBAL DATE(海外wifi):こちら
☆booking.com(ホテル予約):こちら
☆JTB(航空チケット):こちら
☆ハイウェイバス ドットコム:こちら
☆ジェイアイ傷害火災保険株式会社:こちら

御土産のジャスミン茶は北京老舗の呉裕泰で購入 (*´ -`)(´- `*)srsr

祖大寿墓碑再訪:中国遼寧省興城市

20150908文廟祖大寿の墓碑を再訪(興城文廟碑林は3度目の訪問)。

前回(2013年8月)に見た興城文廟碑林の祖大寿の墓碑は、もとは1974年に鎮国公祖公塋を平地にならした時に火薬で爆破して埋めたが、2011年4月に興城西河近くの祖家墳より再び「発見」され、8個の石塊を文廟碑林に運んだものという。2010年8月に小生が文廟碑林を訪れた時はなく、2013年8月に再度訪れた時にあったことと合致する。(文廟碑林にはこのほか1969年に一度解体された「祖氏石坊」関連のものも置かれている)

今回、文廟碑林に向かったところ、前回置かれていた場所はきれいに片付けられて休憩スペースになっていて石塊はなかった。他の観光客に案内をしていた文廟の職員に聞いたが何も知らないという。周りを見回したところ、石塊のひとつ(写真;「老,方且……佳城,霊……三月」)が北西の端に置かれていたが「祖大寿」と名前が書かれた石塊は見つからなかった。

どこか資料館なり研究施設に運ばれたのならばよいが、なんともいえない気持ちのまま興城文廟碑林を後にせざるを得なかったのが心残りである。

2015年9月8日踏査 (*´ -`)(´- `*)srsr

☆参考ウエブサイト☆
祖大寿墓碑尋踪:こちら
☆以前の関連記事☆
祖澤溥墓跡:中国北京市豊台区祖家荘(2015年9月踏査):こちら
祖大寿墓碑:中国遼寧省興城市(2013年8月踏査):こちら
祖大寿石坊:中国遼寧省興城市(2010年8月踏査):こちら
興城文廟:中国遼寧省興城市(2010年8月踏査):こちら
興城古城:中国遼寧省興城市(2010年8月踏査):こちら
八旗漢軍旗人・祖承勲の石碑:中国北京市海淀区(2002年9月踏査):こちら

国際満学青年学者論壇

20150911国際満学青年学者論壇
主催:吉林師範大学満族文化研究所、中国人民大学≪清史研究≫編集部
場所:吉林師範大学(吉林・四平)
日時:2015年9月11日〜13日

20数年ぶりの吉林省、前回は長春だったので四平は初。近年、満学(満洲族の歴史・言語や文化などの研究)の発信基地として知られる吉林師範大学での国際学会に参加している。

中国・台湾・香港・日本・韓国などから30数名の若手研究者が日頃の研究成果を論文としてまとめ、それを2班に分かれて発表した。その発表に対して杜家驥・劉小萌・定宜荘・祁美琴など専門家20名弱が(2班に分かれて)批評を加えたりした。日本からは発表者として3名(小生を含む)、専門家として2名が参加した。若手中心だが小生も企画時から参加するよう言われており、通常の学会報告同様に準備して乗り込んだ。

小生自身は「従“帰附漢人”転到“漢軍旗人”−以“盛京出生”者為中心」と題した報告をおこなったほか、12日午前に司会(単独)を担当した。原稿そのものはすでに7月末に完成・提出しており問題はなかったが、報告時にパワーポイントを使用する比率が多かったため、自身も急遽用意してこれに対応した。時間配分(1人15分)も問題なかった。

旧知の研究者のほか、院生らともたくさん話した。また中国や台湾の八旗漢軍研究の近年のはやりを質問内容から知ることができ(それぞれ全く異なる)、興味深い国際学会であった。

12日午後は葉赫、13日は開原・鉄嶺へエクスカーションが組まれている。

朝晩は13度くらいまで下がる (*´ -`)(´- `*)srsr

祖澤溥墓跡:中国北京市豊台区祖家荘

20150907zujiazhuang祖澤溥(1607〜1679年)は祖大寿(1579〜1656年)の実長子。族兄・祖澤潤が祖大寿の後継ぎ(義子)となっており、澤溥は次子として扱われた。

明朝・崇禎帝の時代(1628〜1644年)に北京に出仕、錦衣衛指揮同知に任じられた。祖澤潤(1631年投降)や祖大寿(1631年及び1642年投降)が清朝に投降した後も明朝とともにあり、明朝が李自成によって滅ぼされる(1644年)と南明の弘光政権に属した。その後、清朝に降ると御前一等侍衛となり順治帝の旁らに仕えた。康煕年間には山東総督や福建総督などを務めた。

明清交替期において祖澤溥とその行動を見ることは、祖大寿一族や「祖家将(関寧遼軍)」の政治的・社会的位置づけを考える上で極めて重要である。その祖澤溥は康煕18年(1679)に死去すると順天右安門外草橋に葬られたと『祖氏家譜』に記されている。

遼金城垣博物館のすぐ近く、現在は住宅地となった右安門と涼水河に挟まれた場所のうちアパート3棟(写真の茶褐色3棟)だけに「祖家荘」が冠されており、周囲はすべて玉林西路に属する。ここが祖澤溥の墓跡であることは間違いないが、地名のほか墓が存在したことを示すものは今は何ひとつない。1952年7月に祖澤溥の墓は北京市人民政府文教委員会文物調査組により発掘調査されたが、当時の記録によれば盗掘されておらず、相応の出土品があったようである(周耿「介紹北京市的出土文物展覧」『文物参考資料』1954年第8期)。出土した墓誌は『北京図書館蔵中国歴代石刻拓本匯編』に載せられている。

2015年9月7日踏査 (*´ -`)(´- `*)srsr

9月7日(月)

20150906昨日6日、2年ぶりに北京入り。学会報告と調査など。ニュース番組やテレビドラマ、また居民区掲示板や美術館展示などを見ると、こちらはまだ抗日戦争勝利と世界ファシスト戦争勝利70周年の余韻のなかにある。そんな北京は朝晩15度ほどだが、最高気温30度まで上がり暑い。

前回と比べて変わった。身近なところでは列車のチケット申し込み&受取方法、地下鉄&バスの運賃(分段计价线路;2014年末より)など。やはり交通ICカード(一卡通)がないと不便だが、某先生に貸したまま(百数十元の残金あり)返ってこないので新たに購入。またバスは並ぶ(排队)人たちが格段に増えたのは喜ばしい限り。

7日は5ヶ所を踏査。街中のあちこちで小学校の入学式を見た(中国では9月が新学期)。途中、北京南駅(北京南站)に立ち寄ったが、駅ナカを見るとどこかのデパートかと見間違うくらいの充実&小綺麗さ。

一昨年復活したかに見えた毛・分のお金は今回まだ一度も見てない。

出発前に対応するのを失念しネットの接続で不便を味わっている。実はこのブログの写真も中国では見られない。もし違う写真がアップされているかもしれず(北京駅)、その場合は帰国後に戻す予定。

それにしても貧乏人には円安がきつく2割ほど実感として損している。今回は特に厳しい (*´ -`)(´- `*)srsr

4月6日(月)

IMG_1754夜は某懇談会に参加し、新学期の始まりを実感した。

先日、自宅に戻ると『講談社実用中日・日中辞典』(講談社、2015年3月)がポストに。発注してないけどと中を見たら、以前お手伝いした仕事が完成したものだった。ページ最初の[百科項目執筆]に自分の名前があった。

今年度は特にここに書かないが、目標を設定した。精進したいと思う。

項目執筆した辞書がようやく出ました (*´ -`)(´- `*)srsr

3月16日(月)

20150316本日、博士(文学)の学位記を頂きました。

これまで御指導頂いた諸先生方、応援してくれた家族・友人・知人や支えてくれた方、先輩・後輩・教え子のみなさん本当にありがとうございました。

これを通過点のひとつとして、今後は不足する基礎資料読み・歴史学や当該分野の議論を踏まえつつ、更に深みある研究成果が発表できるよう一層精進します。

今後ともよろしくお願いいたします (*´ -`)(´- `*)srsr

3月10日(火)

20150310劉小萌先生(中国社会科学院近代史研究所)が定年退職された。

劉先生とは2000年に来日され、日本大学で特別講義をされてからお世話になっている。当日の懇親会とその後のことは知る人ぞ知る伝説となった。その御縁か2002年に小生が留学した際には受け入れをしていただいた。某ブログPC版タイトル画像右下に小さく写っているのは2人で現地考査をした時の一枚。プライベートでも親しくさせて頂いている。

2000年当時、「自分の定年時にはもう身体も動かなくなって、みんなと連絡が取れなくなる」と言っていたが、その後もたびたび来日され、東北学院大学で客員教授を1年間された。今回もメールを入れたら、ルーティンの出講がなくなるだけで引き続き研究所には籍を置かれるとのこと。また吉林師範大学満学文化研究所にも客員教授として招かれている。中国と日本との交流も増して盛んになった。これからも御指導をお願いしたい。

写真はふきのとうの天ぷら。苦いけど春の息吹を感じる (*´ -`)(´- `*)srsr

3月9日(月)

20150309雨降りの月曜日。

清朝史・八旗制関連の書籍2冊がほぼ同時発刊。

1.谷井陽子『八旗制度の研究』(京都大学学術出版会、2015年2月)
2.杉山清彦『大清帝国の形成と八旗制』(名古屋大学出版会、2015年3月)

目次はリンク先を参照のこと。2冊のほぼ同時発刊は八旗制の隆盛を感じる。谷井本は書き下ろし(附論1)が1章分追加、杉山本は既発表論文でない分読み応えがある。まずは拙稿がどう引用されているかを確認。これからじっくり読ませて頂くことにする。互いの学説との議論や大きな流れとの関連性も興味深い。

昼間は元教え子4人と昼食を一緒した。各自進路が決まり一息ついていた (*´ -`)(´- `*)srsr

2月28日(土)

20150228午前中、川口居留地跡を歩いた。

1868年(慶応4)大坂開港によって居留地が設けられた場所。大阪における文明開化の窓口で、モダン大阪発祥の地でもある。1894年(明治27)改正条約によって居留地が廃止された。

阿波座駅→中国総領事館→木津川橋→大坂船手会所跡→大阪市役所江之子島庁舎跡→大阪府庁跡→安治川橋跡→居留地議事館跡→川口居留地跡碑(写真)→富島天主堂跡→運上所跡(大阪税関発祥の地)→川口基督教会→カフェ・キサラギ跡→松島遊郭跡

通天閣から天王寺公園へ抜け、夕方東京へ戻った。

恩師M先生の誕生日。しばらくお会いしていませんがおめでとうございます (*´ -`)(´- `*)srsr

2月27日(金)

201502276時半より朝のお勤めに参加。

朝食後、8時前に路線バスで高野山駅へ。9時前に九度山駅到着。

真田古墳→善名称院(真田庵;真田昌幸墓[写真]・雷封じの井戸・宝物資料館)→招福庵→紀ノ川→幸村屋敷跡→九度山駅→なんば駅→河内小阪駅→司馬遼太郎記念館

『真田太平記』巡りの終着地。関ヶ原で敗れた真田昌幸・幸村父子が流された場所。14年の配流生活で、昌幸はここで亡くなり、幸村はここから子の大助と大坂城に入城した。幸村・大助父子が水練をおこなった紀ノ川の河原や幸村屋敷跡を教わったので回った。

昼食後は東大阪市まで戻り、司馬遼太郎記念館へ。大坂の陣400年企画展『城塞』を見学。「菜の花忌(2月12日の司馬遼太郎命日)」近くだったためか、記念館と周囲が菜の花で飾られていた。多くのシニアボランティアが活躍していたのが印象的だった。

Kさん梅田の串カツ屋さんの紹介ありがとう (*´ -`)(´- `*)srsr

招福庵(オリジナルグッズ):こちら
司馬遼太郎記念館:こちら

2月26日(木)

20150226メンタル面で色々あり高野山に登った。今年は高野山開創1200年。今回の近畿行きの主目的のひとつ。

朝5時過ぎに始発に乗ろうとしたが地下鉄入口が開かない。1時間早かったようだ。南海なんば駅から急行→ケーブルカーを乗り継ぎ高野山駅到着は8時前。高野山駅も改装直後で2階待合室には高野山電気鉄道以来のミニ展示があった。

雨の中1日かけて高野山を歩いて詣でた。

女人堂→蓮華定院(上段の間・真田信之と信政の供養塔)→徳川家霊廟→大師教会→霊宝館→根本大塔→金剛峯寺(柳の間)→奥の院霊廟→熊谷寺(宿坊)

奥の院霊廟(写真)では、この橋の向こう側は撮影不可。この日は授戒を受け、阿字観を体験。ほんの少し触れた程度だが、主に暗闇でおこなう密教の儀式は興味深かった。

19,000歩弱、13kmを歩いた。消費カロリー753kcal (*´ -`)(´- `*)srsr

高野山熊谷寺:こちら

2月25日(水)

20150225早朝便で大阪入り。

12年ぶりの大阪。連泊するのは初めて。中学2年から真田氏関連の史跡(上州の岩櫃城・沼田城・名胡桃城や信州の小県・上田城・松代城など)を歩き、30年目の最終地点・近畿。偶然にも今年は大坂夏の陣400年。来年度の大河ドラマは「真田丸」だが、自分は池波正太郎『真田太平記』で廻った。幸村派でなく信之派。さしあたり(๑′ᴗ‵๑)

大阪市内は真田氏関連遺跡が多い。1日かけて天王寺方面から北上。茶臼山→安居神社(幸村戦死の地)→四天王寺→真田丸跡(西公園・三光神社・宰相山公園)→真田山旧陸軍墓地→鶴橋市場→心眼寺→鎌八幡→善福寺→大阪城公園(蓮如上人袈裟懸の松・旧第四師団司令部・天守閣・山里丸[淀君並殉死者三十二名忠霊碑、秀頼・淀君等自刃の碑]・豊国神社・石山本願寺推定地)→難波宮跡→大阪歴史博物館

20150225-2真田以外も混じっているが。偶然にも博物館前から宿舎横までバスがあった。夕方から友人と会う。

あらかじめ予定を組んでいたので、夕方までにこれだけ歩けた。写真は大阪城の梅。咲いていたのはこの辺りのみ。

22,000歩強、15.5kmを歩いた(電車移動を除く)。消費カロリー893kcal (*´ -`)(´- `*)srsr
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管理人プロフィール

出身地:群馬県前橋市

履歴:高校卒業後,日中学院より中国に3年間留学。印刷関連会社勤務を経て,日本大学通信教育部(史学専攻)から日本大学大学院文学研究科史学専攻(博士前期課程)へ。日本大学大学院文学研究科東洋史学専攻(博士後期課程)満期退学。博士(文学)

現職:非常勤講師ほか

専攻:清朝史・満族史・東北アジア民族史・東アジア史及び満洲語文書資料。

タイトルの“tere inenggi”とは満洲語で“その日”という意味です。

現在,歴史学・東洋史・中国語(漢語)・コンピュータ情報リテラシー等の講師をしてます。講義では,できるだけ多様な視座を提供したいと模索中です。

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