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研究(満族史・清朝史・東アジア史)や講義(歴史学・東洋史・中国語[漢語]・コンピュータ)等の備忘録

現地調査

朱之韻梁跡を辿る(2019年2月〜3月)

朱之韻量攸(朱公書院内)清代、“明朝後裔”に認定され一等延恩侯に封爵された朱之韻箸修亮辺を尋ねた。詳しくは、拙稿「一等延恩侯朱氏的封爵」(『満学論叢』第7輯、2017年12月)を参照のこと。2019年2月24日(日)より3月2日(土)まで中国江蘇省南京・安徽省亳州に滞在した記録。

康熙38年(1699)4月、清聖祖康熙帝は第3次南巡のとき江寧(南京)の明孝陵で祭祀をおこない、「明朝後裔を探し求めて職銜を授け、代々祭祀をおこなわせたい」と述べた。

明孝陵康熙帝は計5回、江寧の明孝陵を訪れ、また全ての明朝皇帝陵墓を保護した。これは漢族文化を尊重する一方で、漢人の清朝に対する敵愾心を取り除くためでもあった。しかし、「朱三太子」事件が絶えず発生し「反清復明」思想が残る康熙年間には、結果として明朝後裔を探し出すことができなかったのである。

雍正2年(1724)、清世宗雍正帝は「明代後裔」6名の中から正定府知府の朱之院鑲白旗漢軍所属)に一等侯の爵位を与えて正白旗に擡旗させ、毎年の春・秋に昌平と江寧(北京と南京)の明皇帝陵の祭祀をおこなわせた。朱之韻鰐逝請賃莉住飴丗經焚Δ了丗垢噺世錣譟科挙官僚として康熙20年(1681)以降知州・知府などを歴任した。

朱公書院康熙30年(1691)に亳州知州に着任朱之韻亮世は民衆に慕われた。6年目に移動になるところを民衆の訴えで延期され、結果として康熙46年(1707)まで足掛け17年在任した。そして、在任中の康熙37年(1698)には北門外に生祠が建てられた。これが現在の朱公書院である。

朱公書院に1時間以上いて中国人ガイドと中国人団体客が何度も通り過ぎたけど、話している内容は朱之韻亳州知州の治世で慕われたために生祠が建てられたという地元優先の話で、彼が明朝の後裔に任じられたことや、『紫禁城の黄昏』に子孫の朱勲が登場するというような清朝や世界史に繋がる話に結びつけたなら、観光客が素通りすることは少ないのではと感じた次第である。

「康熙謁陵紀」碑南京では、江寧織造で曹寅(曹雪芹の祖父;康熙帝の乳兄弟)が康熙帝をサポートして明孝陵(明太祖朱元璋の陵墓)に康熙38年(1699)に建てた「康熙謁陵紀」碑(康煕帝が"明朝後裔"を探し求めるきっかけとなった)と「治隆唐宋」碑や雲錦で知られる江寧織造博物館なども観てきた。亳州は初、南京は四半世紀振りの滞在であった。

10月31日(月)

20161101北海道踏査最終日(3日目)は昨年も行った旧赤煉瓦庁舎の樺太関係資料館。

観光客が多いと思ったら、中国人(東北なまりがあった)だった。

その後、六花亭で買い物をしてレンタカーを返した。レンタカー屋さんが空港から離れているので、早めに返却した後はお土産を買い、空港内の温泉に浸かって疲れを癒やした。

羽田へ着いたのは日没後だった。翌日1限が授業なので、万一に備え埼玉県内の安宿を予約しておいた。20時前にホテル着。夕食食べて早めに寝た。

合計走行距離は3日で1150キロ。直線距離だと東京から屋久島くらいかな (*´ -`)(´- `*)srsr

10月30日(日)

20161030待ちに待ったこの日。2週間以上前から天気予報ばかり眺めていたのは、この日のため。そんな北海道踏査2日目。

3時40分、ホテル出発。6時20分、おびら鰊番屋文化歴史公園(道の駅)着。松浦武四郎銅像と荒れる日本海を前に休憩。鰊漁も江戸期蝦夷を支える産業のひとつで、こういう場所に会所が設けられた。途中、三毛別ヒグマ事件で有名な苫前を通過(復元現地も見たかったが、片道2時間近くかかるのと、今でも本当にヒグマが出る[今年はクマの出没が多い]のでやめた)した。

8時15分に天塩到着。鏡沼海浜公園内の松浦武四郎銅像へ(なぜか布でぐるぐる巻きにしてあった)。ここは江戸初期の松前城下交易時代にはテンショと呼ばれ、東のメナシとともに松前まで蝦夷の交易船が出ていたと宣教師アンジェリスの記録にある。来たかった場所のひとつ。

10時半、宗谷岬到着。言わずと知れた日本最北端の地。気温2度、風速11メートル。残念ながら42キロ先の樺太は見えなかった(写真上)。間宮林蔵渡樺出航の地→宗谷歴史公園の旧藩士の墓前にお供えをし、正午前に開基百年記念塔に到着。今回の踏査のメイン。稚内市北方記念館は今年最後の開館(10月末日まで。月曜休館なため本日が最終日)。塔に登ったがやはり樺太は見えなかった。ただ西に霞んで見えた利尻富士に存在感を感じた。記念館に図録はなかったが撮影は自由だったので、たくさん写真を撮った。コミュニティFMのFMわっぴ〜(http://www.wappy761.jp/・サイマルラジオで聴く)で和んだ。

20161030-2稚内駅前で昼食を済ませ、ガソリンを満タンにして最終目的地へ。天塩山地で雪が降り始めて路上は凍結、また追い抜いたダンプカーに煽られながら、日没直前の15時50分に音威子府村の「北海道命名の地」に到着(写真下)。

そこから旭川まで雪が断続的に降り、真っ暗な見知らぬ道を高速道を乗ったり降りたり(繋がってない)して、260キロ先の札幌まで走った。若干だが命の危機を感じた。20時前に札幌のホテル着。

この日(だけ)の走行距離736キロ。もちろん一人で運転。後にも先にもこれを超える記録はない。後日談だが、数日間頭痛に悩まされることになる。 真田丸を見て、ススキノで夕食をとった。

736キロは東京ー岡山間くらいかな (*´ -`)(´- `*)srsr

10月29日(土)

20161029昨年に続き、北海道踏査の初日。休み期間と金額と博物館開館時期の折り合いをつけると、どうしてもこの時期になってしまう。

早朝便で千歳空港入り。レンタカーを借り(昨年とは別で安くしたら思いのほか時間を費やしてしまった)、午前は新ひだか町静内へ。真歌公園に11時ちょうど着。英傑シャクシャイン像・シベチャリチャシ跡・シャクシャイン記念館・アイヌ民俗資料館・松浦武四郎記念碑を見る。

途中、今夏の北海道を襲った台風で崩れた崖、寸断されて土に埋まったり宙ぶらりんになった日高本線の線路などを何カ所も目の当たりにした。運転しながらだったので写真は撮れなかった。記念館の方との話からは、台風で寸断された鉄道をこのまま廃線にして欲しくないという思いを強く感じた。

また天気がよいと真歌公園の坂道から青森が見えると聞いたのが印象的だった。十三湊(青森県)には蝦夷(北海道)からも交易船が頻繁に来港していたからだ。あいにく青森は見えなかったが、松前や函館のある渡島半島はくっきり見えた。こういう土地に来ると歴史地理を体感できるのが大きな魅力だが、北海道踏査初日でそれを感じている。

午後は白老へ。2020年に国立博物館になるアイヌ民族博物館へ。こちらにも松浦武四郎碑がある。展示史料と民俗芸術(歌など)をコンパクトに上手に見せていたのが印象的。昨年行った二風谷より地理的条件が良いこと(札幌から近いことなど)から観光客が多いと聞いていたが、流行っているのは地理的部分だけではないことも理解できた。

17時半過ぎ、札幌市内のホテル到着。走行距離313キロ。ススキノで夕食をとった。

台風の爪痕深し、蝦夷(えぞ)の行秋 (*´ -`)(´- `*)srsr

台湾行き

201602台南2月12日(金)から20日(土)まで史料調査と意見交換で台湾(台北・台南)へ出張。

台北では旧知の葉高樹先生(台湾師範大学)はじめ、許さん・劉さん、台南では村上さんに大変お世話になりました。孫守朋(吉林師範大学;東呉大学に研究滞在中)ともゆっくり話せました。葉先生・孫さんと小生とは専門分野が同じこともあり有意義な意見交換ができました。葉先生には春節休み中にもかかわらず実家から出てきて3日間も小生の相手をして頂きました。学恩に感謝します。

葉先生と共に同分野の大学院生の皆さんと語れたのは収穫でした。一部の院生の論文は読んだことがありましたが会うのは初めてでした。ただ彼らの優れた研究は日本では余り知られていないものがあるので、紹介したり自分の研究に組み込めたらと思います。

当初の予定では日程に余裕をもたせていましたが、台湾入りする前日たまたま国家図書館に小生が以前論文を書いた際に用いた史料(北京:中国第一歴史檔案館原蔵のマイクロフィルム)があるのを知り、その調査で4日間(元の予定は論文のコピーなどで1日間)通いました。もちろん中央研究院にも同史料は購入済でしたが修理中で閲覧不可(日本での所蔵は皆無)。北京ではもう原史料を手に取ることができないだろうと考えていただけに嬉しい誤算でした。国家図書館の当該部署で「満洲語のマイクロフィルムを見た人は初めて(みな中研院に行くので)」とも言われました。国家図書館で閲覧証を作りましたが、研究者ということで「台湾の修士・博士論文」サイトへのパスももらいました。こちらも嬉しい。

201602台湾また台北滞在中の先輩、それから1990年代の中国留学仲間が2人台北で仕事をしており、それぞれ会って昔話に花を咲かせ、ごちそうになりました。全日程、朝から晩まで予定がぎっしりで連絡を頂きながら会えなかった方々もいました。次回はお会いしましょう。

今回は、資金不足から2泊はネカフェ、5泊は風呂トイレ共同(普通のホテルは台南1泊のみ)と体力的にはキツイものでした。ただこれまでの台湾滞在で最も多くの方々(ここに記さなかった方々も含めて)と会って意見交換ができ、また国家図書館や中央研究院(半日だけの滞在)では予定以上に史料・論文が集まったので、研究に活かしたいと思います。葉先生からも宿題を複数頂きましたし。

写真は上が赤嵌楼(台南;せきかんろう)、下が台湾商務印書館(台北)。写真上の石碑には満洲語がある。詳しくは、加藤直人「乾隆帝と台湾の碑」(『月刊しにか』12-3、2001年)を参照。

ネカフェはやはり体力的にキツかったです。すごくコスパ(朝食無料;無料ドリンクバー;交通が便利など)はよかったけどw (*´ -`)(´- `*)srsr

11月2日(月)

20151102-25時過ぎにチェックアウト。

7時前に輪厚PAで朝食。鵡川(むかわ)へ。余市と並び中世和人の居住地があったという場所。ただこちらに痕跡はない。写真上は鵡川駅。

9時半前に二風谷到着。二風谷湖(二風谷ダム)見学後、二風谷アイヌ文化博物館(写真下;写真撮影可)と萱野茂二風谷アイヌ資料館へ。自分は小さい時からアイヌ集落と言えばユーカラのふるさと二風谷だった。だが札幌近郊の白老(しらおい)にアイヌ博物館ができ、2020年に国立博物館になるのと比べ、交通が不便な二風谷は観光客が少なめという。地域のアイヌの方がとても気にしていた。二風谷は北海道で唯一「産業マーク(経済産業大臣の指定を受けた日本の伝統工芸)」をもつ地域でもあり、アイヌのために尽くした初のアイヌ人の国会議員(萱野茂)が出た集落でもある。お昼前に二風谷を出た。

2015110213時過ぎにレンタカー返却。今回の相棒は日産NOTE。走行距離599km。

15時に飛行機で東京へ戻った。博物館休館日(月曜日)があったため変則的な行動となった。二日目午後、白老に行くか悩んだが、また来る機会があると考え今回は外した。次回は日高(シャクシャインの本拠地)なども行ってみたい。

だいぶ資料も集めた。やはり文字だけでなく、現物やレプリカなどがあると理解を助ける。また展示の方法で立ち位置や何を重視しているかが理解できた。かなり駆け足な調査だったが研究や授業に生かせられるよう精進したい (*´ -`)(´- `*)srsr

むかわ町HP:こちら
平取町立アイヌ文化博物館:こちら
萱野茂二風谷アイヌ資料館:こちら

11月1日(日)

20151101北海道2日目。5時過ぎにホテルを出る。余市へ。高速は使わず。トイレ休憩で道の駅に立ち寄ると、隣が「マッサン」で有名なニッカウヰスキー余市蒸留所。目的はここではないので外から眺めるのみ。

まずは行きたかった豊浜トンネル。1996年2月、豊浜トンネル崩落事故で路線バスと乗用車各1台が巻き込まれ20名が亡くなった。当時自分は学生で一日中テレビで流された映像とマスコミの対応は印象に残っている。現在は新しい豊浜トンネルが使われ事故があったトンネルは封鎖されていた。

よいち水産博物館と併設する余市町歴史民俗資料館を見学。この近く(ニッカウヰスキー余市蒸留所のひと区画東北寄り)は大川遺跡。中世のコシャマイン蜂起のとき、和人の北端はこの余市と鵡川(むかわ)であったと記録にある。また当時の遺跡にそれらしい跡が見られるとのことで見学。お昼頃まで見学し札幌へ。

20151101-2途上、小樽を通過したがやはりこちらは観光客が多い。14時過ぎ北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)に到着。樺太関係資料館を見学。その後、閉場ギリギリでクラーク像(羊ヶ丘展望台)へ。唯一の観光(๑′ᴗ‵๑)

夜は地元の方オススメのスープカレーの店へ。紹介ありがとうございました (*´ -`)(´- `*)srsr

よいち水産博物館・余市町立歴史民俗資料館:こちら
赤れんが庁舎:こちら
樺太関係資料館:こちら
クラーク像(羊ヶ丘展望台):こちら
スープカレーsuage+:こちら

10月31日(土)

201510312005年函館以来の北海道。研究と仕事関連。とはいえ安く済ませた(知人が値段を聞いて驚いていた)ため贅沢はできない。

早朝便で新千歳空港入り。レンタカーを借り、午前は義経伝説で知られる義経神社と敷地内にある義経資料館(沙流郡平取町)へ。1時間半程で到着。

本州では「源義経が北海道に来たか来なかったか」が話題のひとつだが、こちらにはそういう議論もあるが、それ以上に伝説成立の背景はしっかり解説されており、騒ぎ立てるほどではない。むしろ北海道アイヌが日本に組み込まれていく過程を読み取るひとつの出来事として位置づけられよう。

20151031-211時過ぎ札幌へ。平取から札幌までは97キロ。

午後は北海道博物館。企画展「夷酋列像」と常設展を見学。やはり百聞は一見に如かずなのを悟る。企画展・常設展ともによい資料になりそう。ただ常設展の図版はまだ出ておらず(2015年4月開館)旧北海道開拓記念館のものが置かれていた(でも売り切れていた)。

繁華街から少し離れたホテルへチェックイン。夜は札幌に詳しい知人オススメの味噌ラーメン屋さんへ (*´ -`)(´- `*)srsr

義経資料館:こちら
義経神社:こちら
北海道博物館:こちら
北海道博物館企画展「夷酋列像」:こちら

9月16日(水)

16日夜に帰国。往路は羽田、復路は成田。リムジンバスまで40分程の待ち時間だったが(20時50分発;聖蹟桜ヶ丘駅行き)、新宿を素通りできるのは大きい。以下、備忘録代わり。

北京での現地踏査4ヶ所(7日・9日)と遼寧省興城市(8日)、「国際満学青年学者論壇」での参加・発表(11日〜13日於吉林師範大学[吉林省四平市];葉赫古城[四平市鉄東区葉赫鎮]・鉄嶺市白旗寨満族郷・哈達古城[開原市古城子村]へのエクスカーションを含む)は予定通りに済ませた。10日・14日は北京−四平の移動、15日は書店(王府井書店・三聯書店[以上は7日済]、中関村図書大厦・博雅堂書店[北京大学構内]・萬聖書園など)を回る。書籍は高騰していて諦めたものが多い。

今回すっかりVPN設定を失念してネット制限を食らう。次回は気をつけよう(追伸:どうやら中国からでも設定できたらしい)。

日程に余裕をもたせたが、学会報告後に降って沸いたように急ぎの仕事が入り、結果的にそれで補填。心残りはVPN(まだ言うか)とエクスカーションの長白山行き(2泊3日)に参加できなかったこと。後期授業が始まっており、これ以上の休講はスケジュール的にきついので断念。

荷物については、乾燥した北京では(四平も乾燥気味)ポロシャツで手洗い・手絞りで翌朝に乾くので、服の持参は2/3でよかった。ティーシャツ2枚、ポロシャツ2枚と寝巻き(ティーシャツと短パン)で9月は十分。洗って回せる。学会用ワイシャツは2枚欲しい。

それから、中国では書籍とお土産さえ買わなければお金は掛からないことを実感。また郵送(船便約9kg)で200元強だった。

2年ぶりの中国は前回より変化が大きかったが、小生自身が基本的な準備を忘れていたりしたことも大きかった。次回はこの備忘録と前回の備忘録を再確認しないといけないな。いや手書きの備忘録もあるんですがね。笑

写真ならぬ動画は興城駅に入線する2590次列車(38秒)、2015年9月8日撮影。

研究成果もできたようなので、前に進もう。

以下、今回の中国行き関連ウエブサイト:お世話になりました(๑′ᴗ‵๑)
☆吉林師範大学満学文化研究所:こちら
  →国際学会開幕式の記事(写真中の右端でカメラを構えたワイシャツが小生):こちら
☆中国人民大学『清史研究』編輯部:こちら
☆吉林師範大学:こちら
☆北京中安賓館(6日〜10日):こちら
☆四平雅頓商務酒店(10日〜14日):こちら
☆北京宝辰飯店(14日〜16日):こちら
☆鉄嶺県白旗寨満族郷(13日):こちら
  →当日の訪問記事(小生も集合写真に写ってますw):こちら
☆楽旅中国(列車チケット;北京−四平東):こちら
☆旅情中国(列車チケット;北京−興城):こちら
☆GLOBAL DATE(海外wifi):こちら
☆booking.com(ホテル予約):こちら
☆JTB(航空チケット):こちら
☆ハイウェイバス ドットコム:こちら
☆ジェイアイ傷害火災保険株式会社:こちら

御土産のジャスミン茶は北京老舗の呉裕泰で購入 (*´ -`)(´- `*)srsr

祖大寿墓碑再訪:中国遼寧省興城市

20150908文廟祖大寿の墓碑を再訪(興城文廟碑林は3度目の訪問)。

前回(2013年8月)に見た興城文廟碑林の祖大寿の墓碑は、もとは1974年に鎮国公祖公塋を平地にならした時に火薬で爆破して埋めたが、2011年4月に興城西河近くの祖家墳より再び「発見」され、8個の石塊を文廟碑林に運んだものという。2010年8月に小生が文廟碑林を訪れた時はなく、2013年8月に再度訪れた時にあったことと合致する。(文廟碑林にはこのほか1969年に一度解体された「祖氏石坊」関連のものも置かれている)

今回、文廟碑林に向かったところ、前回置かれていた場所はきれいに片付けられて休憩スペースになっていて石塊はなかった。他の観光客に案内をしていた文廟の職員に聞いたが何も知らないという。周りを見回したところ、石塊のひとつ(写真;「老,方且……佳城,霊……三月」)が北西の端に置かれていたが「祖大寿」と名前が書かれた石塊は見つからなかった。

どこか資料館なり研究施設に運ばれたのならばよいが、なんともいえない気持ちのまま興城文廟碑林を後にせざるを得なかったのが心残りである。

2015年9月8日踏査 (*´ -`)(´- `*)srsr

☆参考ウエブサイト☆
祖大寿墓碑尋踪:こちら
☆以前の関連記事☆
祖澤溥墓跡:中国北京市豊台区祖家荘(2015年9月踏査):こちら
祖大寿墓碑:中国遼寧省興城市(2013年8月踏査):こちら
祖大寿石坊:中国遼寧省興城市(2010年8月踏査):こちら
興城文廟:中国遼寧省興城市(2010年8月踏査):こちら
興城古城:中国遼寧省興城市(2010年8月踏査):こちら
八旗漢軍旗人・祖承勲の石碑:中国北京市海淀区(2002年9月踏査):こちら

祖澤溥墓跡:中国北京市豊台区祖家荘

20150907zujiazhuang祖澤溥(1607〜1679年)は祖大寿(1579〜1656年)の実長子。族兄・祖澤潤が祖大寿の後継ぎ(義子)となっており、澤溥は次子として扱われた。

明朝・崇禎帝の時代(1628〜1644年)に北京に出仕、錦衣衛指揮同知に任じられた。祖澤潤(1631年投降)や祖大寿(1631年及び1642年投降)が清朝に投降した後も明朝とともにあり、明朝が李自成によって滅ぼされる(1644年)と南明の弘光政権に属した。その後、清朝に降ると御前一等侍衛となり順治帝の旁らに仕えた。康煕年間には山東総督や福建総督などを務めた。

明清交替期において祖澤溥とその行動を見ることは、祖大寿一族や「祖家将(関寧遼軍)」の政治的・社会的位置づけを考える上で極めて重要である。その祖澤溥は康煕18年(1679)に死去すると順天右安門外草橋に葬られたと『祖氏家譜』に記されている。

遼金城垣博物館のすぐ近く、現在は住宅地となった右安門と涼水河に挟まれた場所のうちアパート3棟(写真の茶褐色3棟)だけに「祖家荘」が冠されており、周囲はすべて玉林西路に属する。ここが祖澤溥の墓跡であることは間違いないが、地名のほか墓が存在したことを示すものは今は何ひとつない。1952年7月に祖澤溥の墓は北京市人民政府文教委員会文物調査組により発掘調査されたが、当時の記録によれば盗掘されておらず、相応の出土品があったようである(周耿「介紹北京市的出土文物展覧」『文物参考資料』1954年第8期)。出土した墓誌は『北京図書館蔵中国歴代石刻拓本匯編』に載せられている。

2015年9月7日踏査 (*´ -`)(´- `*)srsr

9月7日(月)

20150906昨日6日、2年ぶりに北京入り。学会報告と調査など。ニュース番組やテレビドラマ、また居民区掲示板や美術館展示などを見ると、こちらはまだ抗日戦争勝利と世界ファシスト戦争勝利70周年の余韻のなかにある。そんな北京は朝晩15度ほどだが、最高気温30度まで上がり暑い。

前回と比べて変わった。身近なところでは列車のチケット申し込み&受取方法、地下鉄&バスの運賃(分段计价线路;2014年末より)など。やはり交通ICカード(一卡通)がないと不便だが、某先生に貸したまま(百数十元の残金あり)返ってこないので新たに購入。またバスは並ぶ(排队)人たちが格段に増えたのは喜ばしい限り。

7日は5ヶ所を踏査。街中のあちこちで小学校の入学式を見た(中国では9月が新学期)。途中、北京南駅(北京南站)に立ち寄ったが、駅ナカを見るとどこかのデパートかと見間違うくらいの充実&小綺麗さ。

一昨年復活したかに見えた毛・分のお金は今回まだ一度も見てない。

出発前に対応するのを失念しネットの接続で不便を味わっている。実はこのブログの写真も中国では見られない。もし違う写真がアップされているかもしれず(北京駅)、その場合は帰国後に戻す予定。

それにしても貧乏人には円安がきつく2割ほど実感として損している。今回は特に厳しい (*´ -`)(´- `*)srsr

2月28日(土)

20150228午前中、川口居留地跡を歩いた。

1868年(慶応4)大坂開港によって居留地が設けられた場所。大阪における文明開化の窓口で、モダン大阪発祥の地でもある。1894年(明治27)改正条約によって居留地が廃止された。

阿波座駅→中国総領事館→木津川橋→大坂船手会所跡→大阪市役所江之子島庁舎跡→大阪府庁跡→安治川橋跡→居留地議事館跡→川口居留地跡碑(写真)→富島天主堂跡→運上所跡(大阪税関発祥の地)→川口基督教会→カフェ・キサラギ跡→松島遊郭跡

通天閣から天王寺公園へ抜け、夕方東京へ戻った。

恩師M先生の誕生日。しばらくお会いしていませんがおめでとうございます (*´ -`)(´- `*)srsr

川崎市市民ミュージアム「日清・日露戦争とメディア」

20141004日本大学創立記念日で全校休校の10月4日(土)、川崎市市民ミュージアム「日清・日露戦争とメディア」展に行ってきた。

何度か行ったことのある場所。勝手知ったる企画展示室1の前で入場料500円を払って入室。

戦争錦絵・諷刺画・写真・漫画・新聞など250点余り。著名な諷刺画・錦絵、以前見たことのある写真もあったが、総じて興味深く見学した。また日露戦争に従軍した川崎出身の兵士の動向や声を軍事郵便から紹介する展示、川崎に残る日清・日露戦争記念碑など地元に根ざした展示もあった。

別のアートギャラリーでは漫画家・下川凹天の展示があった。日本で近代アニメーションを作った人物。

帰りに所用で表参道に立ち寄ったら人酔いしてしまったw (*´ -`)(´- `*)srsr

「日清・日露戦争とメディア」
会場:川崎市市民ミュージアム企画展示室1
期間:2014年10月4日〜2014年11月24日
観覧料:一般500円、学生・65歳以上400円、中学生以下無料
HP:こちら

岡谷蚕糸博物館:長野県岡谷市

20140814今月(2014年8月)1日,岡谷蚕糸博物館が引越&リニューアルオープンしたので,14日(木)に行ってきた。

世界遺産になった富岡製糸場(群馬県)と同様,明治初年より生糸の一大産地として知られた「岡谷シルク」。新博物館は製糸工場(宮坂製糸所)を併設している。近年の展示方法を取り入れ,内容・順路も分かりやすくストレスを感じなかった。ただ一般入館者に対して全て撮影禁止だったのと,図録が(作られて)なかったのが悔やまれる(このふたつは関連しているのかもしれないが)。

隣の諏訪市にある片倉館(上諏訪温泉)にも立ち寄った。共にこの地域の製糸業を発展させた片倉財閥に関係するもの。片倉財閥は後年,富岡製糸場を買収している。

雨降る中だが2年ぶりの岡谷・諏訪来訪。富岡・八王子・上溝・横浜などの製糸業遺産は小さい頃から現在まで偶然にも自分の身近にあり,これからも関わっていくだろう。

以前の記事:
☆片倉館(上諏訪温泉):こちら
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岡谷蚕糸博物館HP:こちら
片倉館HP:こちら

奮発して食べた岡谷名物のウナギおいしかった (*´ -`)(´- `*)srsr

広島大本営跡

20140207朝7時起床。宿舎の朝食バイキングが話題と友人から聞いたので一度位はと食べてみる。地元食材を使った地産地消のバイキング,美味しかった( ´ ▽ ` )ノ

チェックアウト後,宿舎の近所にある頼山陽史跡資料館,旧日本銀行広島支店を参観し広島城へ。

今年は甲午年,つまり日清戦争(1894年〜95年)からちょうど120年目。その際,広島城本丸は大本営が置かれた場所。建物は原爆で倒壊し現在,礎石だけが残る(写真,奥に天守閣)。また日清戦争中に開かれた臨時第七回帝国議会(帝都東京以外で開かれた唯一の帝国議会)の仮設議事堂が西練兵場に建設された。現在の県庁東館南のコンビニ横に跡碑が立っている。

昼食後に空港へ。雪の積もる中,パイロットが客室まで出向き目視で翼の上の雪を確認し離陸。17時40分過ぎ羽田空港着。

明日は10年ぶりの積雪だという。身体を崩さずに (*´ -`)(´- `*)srsr

広島大学

201402046時起床。宿舎近くのバスセンターより8時半前に広島大学着。

中央図書館で申込済の浦文庫の資料を数点閲覧。研究テーマの幅が広がりそうな資料もあった。その後,紹介された東洋史学研究室(写真は文学部)で鴛淵一先生所蔵資料を閲覧(中心は遼金元)。収穫あり。

14時前に終了。遅めの昼食をとり友人の研究室へ。彼の教育メソッドを見学。18時終了。その後,昨日に続き友人宅で夕食をごちそうになる。有名な西条の美味しい日本酒を頂き21時前に帰路へ。

徳山行きなので乗り過ごさないように目を開けていたが,電車が安芸中野駅で15分ほど臨時停車してる間に夢の世界へ。約25分遅れで無事に広島駅下車。宿舎に戻った。充実した1日となった。

東京同様,昨日と打って変わって昼と日没後に吹雪いた。寒かったね。風邪引き注意 (*´ -`)(´- `*)srsr

広島

20140203資料調査ほかで朝イチの飛行機で広島入り。

地元駅始発電車だと間に合わないので隣駅より羽田行きリムジン。チェックイン&お土産買ってたら離陸5分前。

上海留学時代の友人が車を出してくれて,大和ミュージアム(呉市)と厳島神社(広島市;写真)をまわった。思い出話に花を咲かせつつも,彼の中国語教育の最前線での話しを聞き勉強になることも多かった。夕方は西条の友人宅で牡蠣をしこたまごちそうになった。奥さんも当時の仲間なので昔話で盛り上がる。21時半過ぎの電車で広島市内へ。真っ暗ななか,広電でホテルへ。

「日本三景」を制覇( ´ ▽ ` )ノ

しかし,初の広島滞在なのに21時過ぎまで西条でごちそうになって広島市内へ帰るとはw よくぞ迷子にならずチェックインできたものだw

おやつや晩飯は好きな牡蠣づくしでした (*´ -`)(´- `*)srsr

三が日最終日

20140103年賀状が来るのを除けば,普段と変わらない三が日( ´△`)

友人が中伊豆に行きたいとのことで同行。韮山→修善寺→土肥のほか,小生の希望で西伊豆にも立ち寄った。戸田(へだ)は幕末にロシア軍艦ディアナ号が沈没した後,プチャーチン提督らと共に洋式帆船建造(後のヘダ号)をおこなった場所。

ここで何枚か富士山を撮影。知人の間では,海から撮った1枚(海と富士山のみ)が友人の間で人気だったけど,自分は戸田らしい港・松並木・富士山がひとつに収まったものが気に入っている(残りは松並木と富士山)。iphone内蔵カメラでの1枚。

初夢は見なかったが,霊峰富士を山から海から眺めた1日。幸先の良い三が日。

もちろん心太(ところてん)の盛田屋にも行ってきた。5年ぶり。友人らは初めてだったけど喜んでた。相変わらず美味しかったよ (*´ -`)(´- `*)srsr

伊豆の心太(以前の記事):こちら
盛田屋:こちら

日本帰国

20130829今朝のJL860[北京0825-成田1300]で帰国しました。北京は早朝肌寒かったのに日本は残暑厳しい。聞けば暑さがぶり返したとのこと。

北京蟹島での学会終了の翌日は,香山万安公墓(写真上)にある王鍾翰先生のお墓参りに30名程で行ってきました。

世界的に著名な清朝史・満族史研究者の王鍾翰先生には,私自身,学会以外で私的にお会いしたことが2回ある。一度は2002年の留学時で,劉小萌(中国社会科学院近代史研究所)先生と2人でご挨拶にうかがったとき。もうひとつは,1992年末のことで,当時留学中だった自分は翌年度の留学先を中央民族大学にしたくて受入先の先生を捜していたところ,復旦大学の邢蒂蒂先生から同校の趙秉坤先生を通じて王鍾翰先生を紹介された時にお会いした。ただし,当時の自分は,日本の大学を通じた留学でなく,普通進修生だったため(小生の大学入学は中国留学の帰国後),高級進修生以上の受け入れでない(「北京の別な大学に在籍しながら通うのは構わない 」ともお返事頂いた)と王先生のもとで勉強することができないシステムだった。当時は夢叶わずだったが,研究者の末席に連なる身となった(もちろん,帰国後に日本大学に入学して学んだことを誇りに思うが)今から考えて見れば,若気の至りともいうべき大胆な行動だった。

20130829午後,空港近くのホテルに移動。布団がふかふかだったのと,テーブルが広くて(写真下)原稿が進んだのが嬉しかった。一泊だけではもったいないけどしょうがない。帰国前日に空港近くに宿泊したのは留学中も含めて初めてのこと。

自由に使える時間も限られるけど,何とか仕上げないと。またいつものお願いするかなw (*´ -`)(´- `*)srsr

以下,今回の中国行きでお世話になった会社など。
☆BlueSurface(インターネット・初):こちら
☆エクスプロア中国トラベル(列車の切符手配・初):こちら
☆GLOBAL DATA(海外wifi・2度目):こちら
☆skygate(海外航空券&旅行保険・初):こちら
☆じゃらんnet(ホテル予約・常用):こちら
☆agodaホテル(ホテル予約・2度目):こちら
☆北京中安賓館(北京駅近くのホテル・初):こちら
☆北京中協賓館(学会初日のホテル・2度目):こちら
☆蟹島(学会2日目と3日目・初):こちら
☆北京国都大飯店(北京首都空港近くのホテル・初):こちら

故宮博物院:中国北京市

20130824-1北京は16-35度,晴ところにより曇。

月曜日に来てから体重が3キロ落ちた。見た目変わらないけど。いちおう歩きと食事の成果(明日から戻るだろうw)。そんな土曜日。

片道428キロの興城を日帰り電車(片道5時間半)で往復した翌日は,10年ぶりに故宮博物院を訪れた。言わずと知れた中国最大の観光地の紫禁城である。

20歳の初来館以来,十数回訪れているけど,今回は観光でなく大学講義用で使う写真の撮影(撮り直しを含む)のため。既存の写真集やら使おうとしても,掲載されないディープな場所の写真が必要なのです。

20130824-3ホテルを7:00過ぎに出て,9路バス天安門東で下車。天安門広場は昨年度からセキュリティチェックが必須。それと無作為に身分証提示を求められる。また,長安街をくぐり天安門に入ろうとする際にも簡単なセキュリティチェックがある。天安門周辺は通過するのも少々めんどうだ。その天安門は改装中(写真上)。

開館8:30に合わせ,故宮のキップ売り場へ。門票(チケット)60元。もうすでに大勢の人がいて人酔いで気分がすぐれない。故宮入館でまたもセキュリティチェック。どうやらライターを中心に没収しているようだ(天安門広場・故宮・国子監ともに)。太和殿の玉座は閉じて見られなかった(写真中)。展示は見ず,ひたすら必要な場所の写真を撮りまくったら4時間も館中にいた。写真は授業(パワーポイントや配付史料)でうまく生かせたら嬉しい( ´ ▽ ` )ノ

20130824-2それから,故宮訪問の目的はもうひとつ。授業で指示棒代わりに使ってた清朝皇帝画の扇子を再購入するため(写真下)。これは珍しがった歴代の教え子たちによって見事なまでに壊されてしまったからw

午後は国子監へ。観光客で激混みの神武門前バス停を避けて離れたところから5路(鼓楼下車)。北京名物の炸醤麺を食べて10年ぶりの国子監へ。こちらも授業用の写真を撮影して,60路で北京站口東で下車してホテルへ戻った。帰舎後,国際学会のプログラムがメールに添付されてた。自分は2日目午後の某グループワークの司会になってたことを初めて知るw

少し疲れたかな (*´ -`)(´- `*)srsr

故宮博物院(中国語簡体字):こちら

祖大寿墓碑:中国遼寧省興城市

20130823-1興城は19-30度,晴れ。

待ちに待った2年ぶりの興城行き。というのは最近のニュースで祖大寿の墓碑が発掘され,文廟に移されたと聞いたからに他ならない。祖大寿は研究したいと考えつつ,史料を集めてばかりで進まないのが現状。とはいえ,遼西地域と八旗漢軍の成立を解く上で外せない人物である。

23日金曜日は3時起床。K1113次[4:55北京-10:32興城]で向かう。5時間半は普段の睡眠不足を補うかのように眠りこけた。駅からは歩いて10分で旧城内,そこから3分程で文廟に到着。

順治13年(1656)に死去した祖大寿は北京清河附近の永泰村に葬られたというが,故郷の興城にも墓地が作られた。墓は文化大革命中に破壊され,墓碑は地中から壊れたまま見つかったという。バラバラなまま文廟に運ばれた。大きさは最大で60cm×40cm×40cm位であった。文廟の人に聞いたところ,修復作業をしようにも中途半端に残されているので,現在どうするか保留中とのこと(写真上)。

20130823-2楊蔭芳[纂修]『興城県志』(1927年)の「鎮国将軍祖大寿墓碑文」には以下のようにある。「惟順治十三年八月十五日,皇帝遣永平府知府羅廷嶼,諭祭故精奇尼哈番品級祖大寿之霊。曰:惟爾持身敬慎,秉性成老,方且蒙優。忽焉告殞,爰頒祭葬,用表哀悰,永奠佳城,霊其来享。歳次己亥三月吉旦立」。

最初に見つけた石塊は「順治十三年八月十五……皇帝遣永平府知府羅廷……諭祭故精奇尼哈番品……慎,秉性」で,日付と派遣された知府羅廷嶼の名前から祖大寿のものと確信した。次は西側にある石塊で「老,方且……佳城,霊……三月」とあった。少し離れた西の木陰に「級祖大寿……優。忽焉告殞……享……吉旦」と「祖大寿」と書かれたものを見つけた(写真下)。

ちなみに墓碑から満洲文の存在を確認することはできなかった。合璧でないことは確認済みなことから,満洲文は背面にあるのか,または別に満洲文の墓碑があるのか,はたまたいずれでもないのかは不明である。なお,写真のとおり祖大寿墓碑は野ざらしで,子供が乗って遊びながら小生の作業を物珍しそうに眺めていた。また周囲に説明板はなく,観光客は石碑の周囲を飾る龍の文様の話に終始するのみであった。

帰りの電車の都合で,滞在時間が4時間程しかなく,他には石坊と前回改修中だった薊遼督師府を見学して時間切れ。また鐘鼓楼と南関が改装中。2590次[15:02興城-22:00北京]はほぼ定刻通りに北京に到着した。

紆余曲折な運命を辿った人物に魅力を感じることが多い。人間臭くて謎に満ちた,理解するのが簡単でない人物。そこに研究の醍醐味があるかなw (*´ -`)(´- `*)srsr

☆以前の記事☆
☆八旗漢軍旗人・祖承勲の石碑:中国北京市海淀区:こちら
☆興城古城:中国遼寧省興城市:こちら
☆興城文廟:中国遼寧省興城市:こちら
☆祖大寿石坊:中国遼寧省興城市:こちら

8月22日(木)

20130822-1北京は19-30度,曇。

北京市内を廻った1日。ホテルから地下鉄駅へは,北京駅(西側が入口;しかも混雑)よりも建国門まで10分程歩ける便利な抜け道があることを発見。2号線(環状線)と1号線両方に乗れるということで今朝試した。同じ建国門に向かう流れもあり時間も10分位なので,日本で家から駅まで歩く位のイメージでいると便利かもしれない。

鼓楼大街で昨年12月開業の8号線に乗り換え安華橋下車。2002年の留学時のアパート(北京市朝陽区安貞里三区)を見に行った(写真上)。建物の外観は変わらずだったが,1階入口に番号式ドアロックがついていた。近所のデパート華聯商厦も健在で,さらに食堂やセブンイレブンが増えていた。いいな(*´д`*)

安貞里から731路バスで藍旗営。開店時間少し前に万聖書園へ。また引っ越してた(同じ建物の東端)。その後,375路バスで成府路で所用を済ませ,再び375路で五道口へ。某H橋大学のKさんによく連れられて来たカツカレーのお店「ばんり」で昼食。懐かしい味だったw

20130822-2731路で中関村下車し海淀図書城と海淀図書大厦に立ち寄る。帰りは海淀村西から608路で前門西下車し,前門でお土産を購入(写真下)。前門から126路で北京站口東下車。北京の中華ファーストフード「李先生」で夕食をとりホテルに戻った。

何も贅沢してないのにお金が減っていく。前回も書いたけど食費が高騰してるせいかも。なぜなら,これだけ北京市内を移動しながらすべてバスと地下鉄を利用していて,一度もタクシー乗っていないし(山海関で乗っただけ)。書籍も3冊しか購入してないし。

半年経ちました。いつも気に掛けてくれてありがとう。帰って時間ができたらご飯食べましょう。お土産も買いましたよ。待ってます (*´ -`)(´- `*)srsr

山海関「天下第一関」:中国河北省秦皇島市

20130821-a北京は17-31度,晴れ時々曇。
山海関は22〜29度,曇。

明清交替の「天下第一関」山海関(河北省秦皇島市)に日帰りで行ってきた。8月21日の水曜日。実は初踏査。

4時起床。6時前に北京駅に到着。行きは動車(新幹線)D29次[07:00北京−09:32山海関](写真上)。この動車,北京から山海関までは在来線と同じ線路を利用するため,150キロ位しか速度を出さないのが残念。つくばエクスプレスとあまり変わらない。

20130821今回の北京行きで,一番準備不足なのが今日の山海関。まる1日の参観(9:30〜19:30)を考えていたので何とかなると思っていたため。駅前で地図を買い忘れ,突然の雨に降られながら,歩いて10分ほどで山海関城に到着。参観共通券(通票)は110元。清朝史・満族史を研究して15年,ようやく「天下第一関」に立てた(写真中)( ´ ▽ ` )ノ

山海関長城博物館を見学して,4キロ先の老龍頭に向かう。無謀にも歩いて向かおうと考えるが,途中運良く三輪タクシーに声を掛けられて乗車。10分程で到着(10元)。こちらも参観共通券が90元。途中,日本人女性3人組を見かけた。入国後,初の日本人発見!w そういえば日本語しゃべってないなぁw

20130821-1長城最東端で海に洗われる老龍頭(写真下)。21歳の時に長城最西端の嘉峪関(甘粛省)にも行ってるから,8000キロを制覇したことになる……かな? 今夏(もう秋だけど)初のビーチが老龍頭とはw

タクシーを15元で捕まえて山海関駅に着いたのが14時半頃。予約した動車は5時間以上後(19:48)のなので,別な列車に切り替えて(運良くあった),D102次[15:55山海関-18:31北京]に乗車。昼飯を食べてないので,北京駅ナカの吉野家で済ませ,ホテルに戻った。

老龍頭の海神廟で仕事運と健康運(と金運)が上がるようお願いしておきましたw (*´ -`)(´- `*)srsr

最後に一言。中国有数の観光地は人が多すぎて酔うw

☆山海関長城博物館:こちら

8月20日(火)

20130820-0北京は21−29度,晴れ。

現地時間(日本マイナス1時間)5時起床。6時半朝食,7時過ぎ出発。今朝のニュースで遼寧省撫順市清原満族自治県で水害とのこと。

中国人民革命軍事博物館へ。免費参観(無料;ただし身分証提示)なためか開館前から団体旅行者がたくさん訪れていた。昨年10月より建物全面改装中につき展示は野外の6つのプレハブ(中央兵器棚〜5号兵器棚)のみ。

目的は「鎮遠の鉄錨」(写真上)。もと中国北洋艦隊の主力艦としてドイツで建造された鎮遠は,排水量7300屯(当時の東アジアで最大級),日清戦争で日本を苦しめるが鹵獲され日本海軍に編入された。明治29年[1896]4月25日,上野不忍池畔でおこなわれた戦病没者追悼の際に「鎮遠」の錨2つが展示された。戦後,この鉄錨は中国に返還された。そのひとつ。

20130820-1その後,地下鉄で東直門まで行き,民安小区(写真中&写真下)へ。民安小区は,もと安南営と呼ばれた場所。乾隆五十四年(1789)に黎維祁(黎朝最後の皇帝)が中国に亡命し,翌年北京に移された際,従った169名が1佐領に編成されてここに住まわされた。後年,安南人はベトナムに帰還し,ここに子孫は残っていないが名称だけは民国期まで引き続き使われていたようである。詳しくは,綿貫哲郎「安南黎氏佐領編設始末考」(『史潮』新64号,2008年)を参照のこと。

20130820-2続いて香餌胡同へ。ここは続順公沈氏の邸宅があった場所。さらに歩いて三聯書店へ。遅めの昼食をとった後,快104路でホテルに戻り爆睡。気づけば18時過ぎ。だいぶ歩いたので疲れたらしい。北京は広い(*´ェ`*)

夕食は建国門近くの渝信川菜(長安店)。少しだけ雨に降られたが,久々の中国での四川料理。帰りに気づいたけど,今のホテルの場合,地下鉄1号線に乗ろうとするならば,北京駅まで出るより建国門まで歩いても時間はそれほど変わらない。

中華料理は1人だと頼める量に限りがある。しかも寂しいw 1人用「定食」は中国では定着してないので。中華料理は大勢で囲むのがいいよね (*´ -`)(´- `*)srsr

☆鎮遠に関する以前の記事(「征清捕獲品陳列」跡[上野動物園西園内]:東京都台東区不忍池;2007年9月8日):こちら
☆鎮遠の鉄錨:こちら
 近代戦争館(中国人民革命軍事博物館内):こちら
 中国人民革命軍事博物館:こちら
☆森 まゆみ・陣内 秀信「現代都市の「里という居住地」とは」(『水の文化』15号,2003年10月)22頁下の写真→こちら
 機関誌『水の文化』:こちら
 ミツカン水の文化センター:こちら
☆渝信川菜(長安店):こちら

北京到着

20130819今日から中国滞在。仕事なんだけど,ほかに仕事もってきているとか忙しさを実感。ゆえに有意義に過ごしたい。そんな19日月曜日(・◇・)ゞ

3時起床。地元駅まで歩いて始発。5時30分,聖蹟桜ヶ丘からリムジンバスで成田空港(7時15分到着)。早朝便だけなのか,出発2時間以上前なのにカウンターで搭乗手続きが可能だった。昨年同様に海外wifiを借りてイミグレーションを通過したのが7時40分。朝食後にラウンジへ向かうも,成田は入れるのがメンバー限定なのね (´Д⊂)

10時45分発のJL863は若干遅れたものの定刻通り13時50分到着。機場快軌(空港エクスプレス;25元)で東直門で2号線に乗り換え北京站へ。駅傍のホテルにチェックインしたのが16時半前。

北京は21−34度,晴れ時々曇。中国は日本マイナス1時間。

20130819-217時前に北京站西から104路公交車(バス)で王府井へ。用事を済ませ夕食を食べて19時頃ホテルに戻ってきた。フロントの小姐も友好的だし,好きな羊雑湯(写真下)を食べたので満足w それにしても食費が高騰してるな。

今回は,ここ2〜3年急激に変化してる中国北京の流れに取り残されないよう,準備をして乗り込んだ。例えばネット事情。ライブドアブログは写真だけが表示されず,ほかに繋がらないサイトも多いので対応済。また北京空港から市内までの移動。リムジンバスでは遠回りになり時間がかかり,タクシーだと高額なので,初めて機場快軌を利用した。東直門での乗り換えも不便に感じなかった。それから踏査で地方へ行くための早朝出発・夜間到着に対応するため,ホテルを北京駅前に戻した(昨年最終日の記事→こちら)。そして一昨年より始まった中国でのオンラインチケットの販売と8月末の中国人旅行シーズンでチケットがとりづらいので,日本で予め列車のチケットを入手しておいた。手数料が痛いけど,しょうがない。でも,おかげで滞在予定がしっかりと立てられた。

写真は北京駅(写真上)。昨年より入口に入場前の身分証チェックポイントが設けられた(茶色のカマボコ屋根)。

お守りを身につけての来華(外すことはないけど)。こういう時は普段以上に頼りにしてる (*´ -`)(´- `*)srsr

旧小松川文書庫:東京都江戸川区小松川3丁目公園内

20130309komatugawa昭和20年3月10日未明の東京大空襲は,一晩で死者8万人以上を数えたが,江戸川区内でも死者約800人,焼失家屋1万1千戸に及んだ。

旧江戸川区役所が建っていたこの場所も空襲で焼け野原となり,焼けただれた文書庫だけが残された。この文書庫には戸籍簿などが保管されていたが,川に投げ込まれて無事だったという。毎年この時期にのみ内部公開するという話を聞いて来たが,扉は閉まったままだったのが残念。当時を記録する戦争遺跡として,江戸川区だけでなく更に有効活用できないものか。

1991年(平成3)3月10日には文書庫正面に「世代を結ぶ平和像」が建てられた。

☆旧小松川文書庫(元江戸川区役所文書庫):こちら
☆平和の願い後世に!「東京大空襲江戸川区犠牲者追悼式」開催(2010年3月12日):こちら
 江戸川区:こちら

2013年3月9日に踏査。
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夕方には片付け仕事のため八王子のカフェへ。イベント開催中で見たこともない人数が店内に。そんな中,ノマド族に徹して2時間ほどで終了。昼間は暑かったけど,帰りには急激に冷え込んだ日曜日。花粉症さえなければ過ごしやすいのにw

毎日いろいろ考えるのが楽しみだよ。もうすぐ新しい生活リズムに切り替わる頃かな (*´ -`)(´- `*)srsr

市川市郭沫若記念館:千葉県市川市真間5丁目

20130309guomoruo花粉舞い散る中,大学の学生の発案で有志らと5名で市川市郭沫若記念館へ。

郭沫若は計20年日本に滞在(1914〜1923年と1928〜1937年)し,日本人の夫人・佐藤をとみと結婚,4男1女を設けた中国の文学者・歴史学者・政治家として知られている。

作家・村松梢風の知人の紹介により後半の10年間市川に居住し,その旧宅を2004年現地に移築復元したのが市川市郭沫若記念館である。その縁で1981年には,市川市は郭沫若の故郷である四川省楽山市と友好都市締結している。

記念館には,多くの写真やパネルとともに書籍・毛沢東や周恩来から届いた手紙のレプリカなどが展示され,郭沫若を知らない人にも分かりやすく解説してあるし,解説員も勉強している。いわゆる「偉人を顕彰する」ための記念館というのは,ともすれば若い人たちと共通事項が見あたらず,別世界の人物として捉えられることが少なくないため,興味関心をもって貰う機会がないように感じる。そんな中での市川市がおこなっている楽山市への青少年の短期ホームステイは費用が30万円程かかるものの,一般市民の参加を積極的に進めている点で興味深い。

なお,隣接する須和田公園には「別須和田の碑」や郭沫若のレリーフなどが建てられている。

そういえば,最初の留学時に北京の郭沫若記念館に行った記憶がある( ´△`)

☆郭沫若記念館(紹介動画[5分37秒];2008年3月25日):こちら
 いちかわインターネット放送局:こちら
☆郭沫若記念館:こちら
☆郭沫若:こちら
☆郭沫若郭沫若旧宅と須和田公園記念碑:こちら
 市川市:こちら
☆郭沫若紀念館(北京市;中国語簡体字):こちら

お土産で渡そうかなと,無意識にお菓子を選んでいたよw (*´ -`)(´- `*)srsr

イサンガ墓地の石牌(またはタイトル画像)

isangga2002他のブログ同様にタイトル画像が使えないか調べてみたところ,このLivedoorブログに“簡単タイトル画像”機能がついていた。というのを今日知った。

パソコンのタイトル画像として貼り付けたのは,中国北京市房山区岳各庄鎮後台村にあるイサンガ墓地の石牌。写真は記録によれば2002年11月7日,北京留学時に劉小萌先生(中国社会科学院近代史研究所)と房山区一帯を巡見した時のもの。訪れた時,夕方近くで西日が強かったのを今でも覚えている。

イサンガ(Isangga 伊桑阿;1638-1703年)は,イルゲン=ギョロ(伊爾根覚羅)氏,正黄旗満洲旗人。順治九年(1652)に内閣大学士となり,康煕年間には工部・戸部・吏部・兵部・礼部の各尚書を歴任した。特に三藩の乱で活躍したほか,黄河の修築をおこなうなど民政でも大きな役割を果たした。

イサンガの墓地には,華表・石牌・石獅子・墓碑など良好な状態で保存されている。墓碑は高さ4.8mあり,満漢文で書かれ,康熙四十二年(1703)七月十八日に立てられた。

とりあえず気分的に画像を変更するかもしれないけど,しばらくは清朝史・満族史の雰囲気を感じるこの写真でいきます。右下に見慣れた人物が写っていますが,気にしないで下さい。その他,パソコン背景画像にはHP背景画像と同じ満洲語(「満文老档」)を貼り付けてあります。

なお,この画像が見られるのはパソコンのみ。ケータイとスマートフォンでは,そのまま大好きな“ユリ”の画像でいきます(*´ -`)(´- `*)srsr

松姫の関連史跡を辿る(続)

20120916hachiouji0216日は松姫(武田信玄の四女)の月命日。

この日は,信松院(東京都八王子市台町)宝物殿が一般公開されるので行くことに。また,前回の松姫東下ルート上で立ち寄れなかった和田峠(案下峠)にも,家からアクセスがよいことを偶然知ったので,併せて訪れることにした。

地元駅から京王高尾駅→陣馬高原下バス停→和田峠→旧渡辺家→陣馬高原下バス停→JR高尾駅→JR西八王子駅→信松院→八王子市郷土資料館→JR八王子駅へ。

自宅から始発バスに乗り,最寄り駅から京王高尾駅で下車。高尾駅は駅舎と隣接するカフェに見覚えがあるが,いつ何のために来たのか記憶にない。高尾駅北口より6時55分「陣馬高原下」行きバスに乗ろうとするが,休日で陣馬山へハイキングに行く団体で混雑していた。バスは臨時便を含め2台で目的地へ。

和田峠へ通じる道は甲州裏街道または甲州脇街道とよばれる陣馬街道(都道521号線)で,途中から道幅が狭くなっている。そこを走るバス運転手をサポートするため,もうひとりの社員が狐塚バス停(帰りもこのバス停で降りる)から乗り込んでミラーなどで対向車を確認しつつ終点まで忙しそうに立ち回っていた。7時30分頃到着,片道540円。

20120916hachiouji01陣馬街道下より和田峠へは徒歩。勾配12〜13%の坂を汗だくになりながら50分かけて登った(写真下)。

和田峠へは同じ険しいと言われるヤビツ峠(神奈川県)に比べれば道幅も広い箇所が多く,車がすれ違うための退避場所もそれなりにあった。峠の茶屋が開いていたが,駐車場は有料(600円),昭和の雰囲気漂うトイレも有料(100円)と書いてあった。

甲州から逃れた松姫一行が,ようやく北条氏の治める武蔵へと辿り着いた玄関口が和田峠だった。松姫は,ここの松の苗木を持ち後年になって信松院に植えたが,太平洋戦争末期の八王子空襲(1945年8月2日)によって消失はまぬがれたものの枯れてしまった。

20分ほど和田峠の茶屋で休憩した後に下りへ。松姫一行を一晩泊めた旧渡辺家を確認しつつ40分ほどでバス停へ。高尾駅より西八王子駅へ抜けて,徒歩で信松院へ。

上にも書いたように,この日は松姫の月命日なので宝物殿が公開されていた。松姫座像(写真上;撮影許可済)や木製軍船ひな形や寄進目録などを見学。その後,八王子駅まで歩いた。現在,京王八王子駅近くのカフェで登山疲れでウトウトしてる。帰ったら仕事が待っているので,ここで更新。

先週土曜日の踏査と併せて,これで松姫関連の史跡は,ひとまずコンプリート。先週は陣馬街道の道幅の狭さに和田峠まで車で踏破できなかったのを受けるかたちとはいえ,はからずも和田峠を歩いて登ることになろうとは思わなかった。でも,いろいろ考え事をしながら健康的に歩くのはよいことだと自分に言い聞かせたw

連休後かな。香り袋も切れてしまって,ちょっぴし切なくなってます(*´ -`)(´- `*)srsr
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管理人プロフィール

出身地:群馬県前橋市

履歴:高校卒業後,日中学院より中国に3年間留学。印刷関連会社勤務を経て,日本大学通信教育部(史学専攻)から日本大学大学院文学研究科史学専攻(博士前期課程)へ。日本大学大学院文学研究科東洋史学専攻(博士後期課程)満期退学。博士(文学)

現職:非常勤講師ほか

専攻:清朝史・満族史・東北アジア民族史・東アジア史及び満洲語文書資料。

タイトルの“tere inenggi”とは満洲語で“その日”という意味です。

現在,歴史学・東洋史・中国語(漢語)・コンピュータ情報リテラシー等の講師をしてます。講義では,できるだけ多様な視座を提供したいと模索中です。

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