tere inenggi

研究(満族史・清朝史・東アジア史)や講義(歴史学・東洋史・中国語[漢語]・コンピュータ)等の備忘録

現地調査

南蛮スイーツ「今平戸(こんぺいとう)」

hirado01平戸オランダ商館(長崎県平戸市)の復元開館を記念して,昨年9月より売り出した「こんぺいとう」。

戦国時代に「西の京都」と呼ばれ,海外貿易の窓口として栄えた平戸に1550年,初めてポルトガル船が来航して以降,さまざまな西洋の文化がもたらされた。それまで輸入品のみが存在し医薬品扱いされていた貴重な「砂糖」をふんだんに使った「南蛮菓子」もそのひとつ。カステラ・飴・金平糖などは,茶道のお茶請けとして全国に広まり根付いていった。

金平糖は以前も書いたが(→こちら),宣教師から織田信長に贈られたという記録が残されている。そのコンフェイト(confeito)を地元の南蛮スイーツ研究会が復元し,平戸和菓子の老舗(平戸藩松浦家菓子御用)・つたや總本家が販売している。その名も今の平戸と書いて「今平戸(こんぺいとう)」。2種類あったが,小さいオランダ国旗バージョンは製造終了とのことだった。

コルクにはオランダ東インド会社のVOCが印字され,平戸の夕陽の名所「根獅子(ねしこ)の浜」の塩が使われている。松浦史料博物館・オランダ商館・平戸観光協会売店のみで限定販売している。

本来は昨年平戸踏査の際に入手したかったが,発売1ヶ月前だったこともあって未入手。ようやく1年越しの悲願が叶ったという次第。

☆松浦史料博物館学芸員のブログより:
今平戸(こんぺいとう)の販売を開始しました!!(2011年9月22日分):http://d.hatena.ne.jp/matsuraorjp/20110922/1316650863


忘れられてなくてよかった。ただ久しぶりすぎて,ちと空回りしてしまいました。いよいよ新学期スタート,もらったクッキーを食べてがんばらないと。いつもありがとう。 (*´ -`)(´- `*)srsr

中国最終日(6日目;北京市→東京)

20120830beijing01北京は24-35度,晴れときどき曇り。

午前5時にホテルをチェックアウトして空港へ。ホテル近くのバス停(魏家胡同)から106路(4時50分始発)で終点の東直門まで乗り,そこから6時始発の地下鉄・空港線(机场快线)で北京首都国際空港第三ターミナルというセーフティネットを張りつつ,希望としては流しのタクシーを拾えればいいかなと思っていたところ,すんなりと拾えた(ホテルでの対応を見て,面倒さを回避するためタクシーを予約しなかった)。

2年前,同様に朝8時半発の飛行機に乗ろうとして,市内(北京駅前のホテル)から朝5時半前にタクシーを拾ったところ(拾うまで20分以上かかった),運転手が「あと15分遅れていたら間に合わなかったぞ」と,早朝は空港行の高速道路も含めて渋滞になることを聞かされていたため,今回は僅かながら地の利のよい東四のホテルを選んだ次第。

結局,今回は滞りなく朝5時半には空港に到着。ただ白皋橋を過ぎた東葦あたりからは空港に向かう車の量が凄まじかった。やはり早朝便のみ乗るときは要注意のようだ。

飛行機は時間どおり離陸し13時20分(日本時間)には羽田空港国際ターミナルに到着した。東京は相変わらず蒸し暑い( ´△`) 両替を済ませ,14時20分発聖蹟桜ヶ丘行きのリムジンバスに乗り,そこから奮発してタクシーで自宅へ帰った。

今回の中国行きは,もちろん踏査を以前のペースに戻したためだが,もうひとつは運気に勢いをつけるため。というと聞こえはよいが,方法論的に研究が停滞していることのへ打破,及び精神的にはポジティブさを取り戻すためもある。

昨年度から講義は一応フォーマットができて落ち着き,また精神的には5年間続いた1番の負担が終わったけど,その分守勢なのが自分でもよく分かった。でも博論ややりたい事やるべき事があるし,昨年4月から運気が上昇しているようなので,19から22歳の留学時とは言い過ぎだろうが,2002年留学時の頃の怖いもの知らずで積極的な自分を思い出せたらと“敢えて1人で”出かけた。硬座で8時間半は根本的にムリだけど,嫌がるもう1人の自分を押しのけて,結果的には積極的な自分を前面に押し出して行動できたと思う。やはり遼西回廊は魅力的だったし。

とはいえ,今回も日本と中国の師匠,研究仲間や友人から滞在前・滞在中とアドバイスやメールや書き込みなどを頂いたり支えられたりした。ありがたい限り。

などと言いつつ,今回の踏査(中国行き)が今後どのように活かされるかは一切不明だが……。笑

写真は,万聖書園の割引カード。これがあると書籍の割引が受けられる(現在は基本2割引)になる。

今回は故宮博物院内の中国第一歴史档案館での資料調査も予定に入れなかったし,夕方便に変更しないで正解でした。それから陰日陰wに支えてくれてありがとう。1日(土曜日)は18時まで学習センターですが,また別途時間を見てお礼に伺います(*´ -`)(´- `*)srsr

中国5日目(北京市)

20120829beijing01北京は22-36度,晴れ。

最高気温は36度だが,東京みたいに湿気がないので,個人的には過ごしやすい。また,北京は大通りの間隔が東京と比べて広いので,気づくと1時間は軽く歩いていることが多い。そんな1日(*´д`*)

北京市内の数ヶ所を踏査した。

その踏査の中心は,洪承畴の邸宅跡(南鑼鼓巷)と墳墓跡(車道溝)。洪承畴(1593〜1665年)は,もと明の高官で松山の戦い(1641年;遼寧省錦州市)で清朝に投降,後に摂政王ドルゴンの信任を得て清朝の入関戦争,及び中国内地統治に重要な役割を果たす人物として広く知られている。中国ドラマ『大清風雲』(TSUTAYA等でも貸し出されている)の范浩正のモデルの一人とも言われている。

6時半にホテルを出発。朝食をとりつつ50分ほど歩き,邸宅跡の東城区交道口南鑼鼓巷59号へ(写真上)。門墩が“抱鼓型有獅子門墩”なことから高級武官の邸宅だったことが見て取れるが,上部の獅子は削られている。余談であるが,南鑼鼓巷は隣接する中央戯劇学院の劇場とともに中国文化雑貨の店舗やカフェ(日本のタコ焼き屋もあった)が軒を連ね,文化街として売り出している。改装された前門に比べるとまだ知名度は低いようだ。

20120829beijing02地安門東大街の鑼鼓巷から118路バスで紫竹橋南で下車。1990年代の中国留学中にピザをよく食べに来たシャングリラホテルの前を歩いて通り過ぎつつ,バス停から30分ほど歩いて海淀区車道溝の墳墓跡へ(写真下)。現在は某幼稚園の敷地内になっているが,今でも墳丘と古松林が残っており,外から伺うことは可能である。さらに園内には石獅子が現存しているが,外部に開放しておらず(それでなくても幼稚園や学校は警備が厳重なのはデフォルト)見ることができなかった。

大通りに出ると藍靛廠南路。この北西にある藍靛廠はもと藍靛廠火器営と呼ばれ,清代には八旗の駐屯地であり,2002年末までは満洲族が以前の組織そのままに生活していた。現在は再開発で彼らは立ち退いて,新興住宅地となりマンションが立ち並んでいる。それを横目に見ながら時間の流れを感じた。

午後は“旅遊文化街”として再開発された前門で買い物,王府井から北上してホテルへ歩いて帰ってきた。成府路の万聖書園や三聯書店を回ったが,以前のように書籍をバカ買いすることもなかった。14冊のみだが必要な書籍が複数冊あり結果的に満足してる。

確認終了。いよいよ来週ですな。こちらはすでに準備完了です。待ち遠しい♪(*´ -`)(´- `*)srsr

中国4日目(遼寧省凌海市→錦州市→北京市)

20120828dalinghe02凌海市は21-25度,曇のち雨。
錦州市は21-27度,雨。
北京市は21-32度,雨のち曇。雨は台風15号の影響。

7時15分,錦州駅前からタクシーで凌海市へ。私自身は2年ぶり(2010年8月26日に踏査),電羊齋齋主は初めてとのこと。

凌海市には明清交代時に最大の攻城戦が繰り広げられた大凌河城があった。とはいえ,城址などの痕跡は何も残っていない。大凌河にかかる橋のたもとで写真を撮ってきた(写真上)。凌海駅前広場は2年前と比べてコンクリート打されていた。その他は変わらず。ただ運転手が道に詳しいようで,抜け道で目にした光景(高級マンション群,実験小学,伝統的な造りの商店街など)が新鮮に映った。

ちょうど開館時間の9時に錦州市博物館に到着,タクシーを降りて参観。博物館は前回より館内改装が進んでおり,「錦綉之州歴史文明展」に明代・清代の展示がまとめられていた。関係するところでは,明代展示に“竹節鉄炮(錦州旧城出土)”と“銅銃(凌海市化肥廠院内出土)”及び遼西回廊各衛所の地図(前回は別な展示室での大きく解りやすい模型展示だった)が,清代展示に旗人・尹継善墓(錦州市太和区営盤郷董家溝村尹家墳)出土(尹継善及び一妻一妾の3墓)の“雲型首金簪”・“龍頭首金簪”・“「寿」字金帽正”・“古銅色龍袍”が展示されていた。ちなみに墳墓そのものは,1958年「大躍進」時に崩されて平地とされていて跡形もないという。

博物館見学後,環3バスに乗り“站前”で下車してホテルに戻った。その後,チェックアウトして2人で昼食。13時,齋主と分かれた。

20120828jinzhou2人とも偶然にも同じ時間に錦州を離れるチケットを入手していた。私は13時59分錦州発,2591/2590(松原−北京)の硬臥,齋主は14時00分錦州発,大連行きの長距離バス(5時間)。ただ私が乗る列車は32分遅れで14時31分錦州発(写真は2番ホームに入線する2591/2590次列車),結果的に約90分遅れの23時23分に北京駅に到着した(本来は21時59分着)。

駅前に出ると北京市地下鉄への乗り換えに終電ギリギリ間に合わないので,しかたなく長蛇のタクシー待ちに約30分並ぶ。割り込みがなかったのに驚きつつも,29日午前0時過ぎ,ようやくタクシーに乗ることができ,0時20分頃に東四のホテルに辿り着いた。

地方へ出て北京に戻る予定の時は,ホテルは前回のように北京駅前がベターとプチ反省。

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☆以前のブログ記事より:
大凌河城址(2010年10月25日分):http://manju.livedoor.biz/archives/51712878.html
錦州市博物館(2010年11月1日分):http://manju.livedoor.biz/archives/51717299.html

☆電羊齋齋主のブログ:
電羊齋は涙を信じない(電羊齋不相信眼淚):http://talkiyanhoninjai.com/

火曜日の午後はずっと錦州→北京の列車のなかでした。だからこそ余計ににもどかしくなるね(*´ -`)(´- `*)srsr

中国3日目(遼寧省北鎮市)

20120827beizhen01北鎮市は21-25度,雨ときどき曇。

錦州から120km離れた北鎮市の5ヶ所を踏査した。

朝7時に朝食を済ませると,駅隣の錦州バスターミナル(锦州汽车客运站)へ。8時出発,2時間程で北鎮バスターミナル(北镇客运站)に到着。帰りの切符(15:10発)を先に購入(最終は17時10分発)してから市内へ。

北鎮市は遼西回廊の東端にあり,東の瀋陽から200km,西の錦州から120km離れている。現在は鉄道路線から外れて小さな地方都市になってしまったが,明代には広寧と称され遼東都指揮使司に属した東北最高の軍政の中心地であった。1622年(天命七)に清太祖ヌルハチが広寧を攻略すると,周囲にある40余りの城堡がみな降伏したという。これによってヌルハチは事実上遼東を支配下に収めることになる。

現在の人口は53.3万人で満洲・回・漢など19民族が居住している。一番多いのは満洲族で約2/3を占める。また石廷柱3兄弟,年羮堯らの出身地でもある。

市内から2km離れた北鎮廟の往復のみタクシーを利用。途中,“北鎮満族高中(高校)”校門に満漢表記を見かけ写真を撮る(写真上)。2年前に見かけた某満族自治県の役所に比べると,こちらの満洲語表記はきちんと意味をなしている。

20120827beizhen03李成梁石坊は周囲を"文化街”として取り壊して改修中のようで,工事用の柵がギリギリまで石坊に迫っていた(写真下)。鼓楼から広寧城址へは歩いて向かったが,タクシーの降車場所を城址にすれば導線的によかったとプチ反省。そして環状を東側に歩いて戻る途中で瀋陽から来る道,さらに明代の総兵衙門跡(現・北鎮市人民政府)を確認しバスターミナルへ戻った時は13時半をまわっていた。近くで昼食をとって帰りのバスに乗り,17時10分頃錦州のホテルに帰ってきた。

行動中は小雨に降られ,環状東側では舗装されていない泥濘を大型トラック(市内に入れないため迂回している)を避けながら歩いたが,踏査場所が5ヶ所と多くなかったため,急かされたものとはならなかった。ただ北鎮廟で運転手を待たせつつ(「見るところないから10分で見終わるから」という運転手に30分は必要と説明しながら)1時間近くも石碑を見ていた部分は気が引ける。なおこの日は電羊齋の齋主と終日一緒の行動。

遼寧省の片田舎でお約束をしてきたよ。てかどこでも一緒なんだけどw(*´ -`)(´- `*)srsr

中国2日目(北京市→遼寧省錦州市)

20120826chiketto01北京は19-30度,晴れ。

26日に乗車する列車の停車駅を調べていたところ,“異地票”なるキーワードを見つけた。

昨日の日記でも書いたが,昨年よりオンライン予約販売が始まったため,他の土地間の鉄道切符を購入できることが始まったという。これが“異地票”。それまでは出発駅のみの鉄道チケット販売に限られていたため,事前に列車の切符が欲しければ,知人や現地の旅行会社などを通じて予めおさえてもらうしかなかった。ようやく日本のチケット販売に近づいたということだろう。

なので,12時37分発車に合わせることなく帰り(28日)の錦州→北京間を購入するため,朝7時過ぎに錦州行きの荷物をもって北京駅へ。

昨日と同じく,帰りの列車(錦州→北京)も新幹線・在来線ともに満席で,残っていたのは行きと同じ列車の上り便のみ。ただ硬座でなく,留学中よく使っていた硬臥(2等寝台車)が買えたので胸をなで下ろす。そして今日行き(北京→錦州)の硬座以外の座席を確認してもらったところ,K1301(10時17分発;北京−満洲里)の硬臥がとれた(写真上)。乗っている時間が9時間13分(←8時間22分より)に伸びたが,そんなことは問題ではない。

昨年より列車チケットのオンライン予約販売が始まったが,併せて購入時・駅への入構時・乗車後の合計3回,身分証の提示が必要になった。少々めんどうだが,外国人だけでなく中国人も同じなのでしかたない。

20120826jinzhou-eki01切符の購入後,改めて朝食をとって(w)列車へ。あとは勝手知ったる場所なので,到着まで予定を確認したり寝たりして過ごした。途中,北戴河や山海関でたくさんの観光客を見かけ,同じ車両にロシア人親子の団体20名程が乗り込んできた(他の車両にもいるらしい)。このあたりから列車に遅れが出てきたが,錦州駅へは17分遅れて19:47分に到着(写真下)。

2年前と同じホテルにチェックイン。旧知で初対面の電羊齋の齋主と合流,ホテル横のレストランで夕食をとりながら明日以降の予定を確認する。21時半頃,部屋に戻る。

というか,入国2日経つのに,まだどこも見学していないw

そういえば,寝ているのに,ふと思い出して起き上がることが時々ある(*´ -`)(´- `*)srsr

中国初日(東京→北京市)

20120825beijing01今朝,羽田空港を発って北京入りをした。

飛行機は予定時間より30分早く到着したが,北京首都国際空港第3ターミナルは広大なため,移動→入国手続き→手荷物受け取りで時間をとられ,リムジンバス(3号線;T3→T2→T1→三元橋→漁陽飯店→東直門→東四十条→朝陽門→雅宝路→北京駅)に乗り込んだ時は正午(北京時間;日本マイナス1時間)。東四十条で下車,徒歩でホテルへ。有名な月牙胡同にあるホテルは伝統的な四合院をモチーフとした造り。5連泊でも1万5千円(日本円)程度なのは安い。

師匠の一人,劉小萌先生(中国社会科学院近代史研究所)に連絡し,18時に光煕門のホテルで待ち合わせることを決める。

北京駅に列車の切符を買いに行く途中,ムスリム(清真)食堂で昼食。羊雑湯と羊肉串で14元。地下鉄5号線・張自忠路駅から崇文門で2号線に乗り換え北京駅へ行くはずが逆方向への乗り間違いw 

北京駅切符売り場(售票处)で翌26日の切符を購入しようとするが,中国新幹線(動車;中国高鉄)6本と在来線のほとんどが満席。昨年よりオンライン予約販売が始まったため,前日だと買いにくいのかも。後に聞いた話では,ちょうど新学期準備のための学生の移動及び旅行シーズンとのこと(加えて週末)。

ようやくとれた切符は新幹線ではなく在来線(2589/2592・北京−松原)で8時間半の長丁場。さらに小生自身を悩ませるのは,知る人ぞ知る通路・トイレに人があふれ,汚さでは最も酷い“硬座"。10代後半から20代前半の時の留学時代には何度も乗ったことはあるが,まさかこの歳で長時間乗ることになるとは…… 

20120825beijing02切符購入後,光煕門へ。劉小萌先生や細谷良夫先生(東北学院大学名誉教授)御夫妻,張永江先生(中国人民大学)と5名で会食。北京で流行っているという羊蝎子鍋を頂いた(写真下)。聞けば同じ北京の某所でも若手研究者等が会食しているというが,翌日皆早いため,20時過ぎには参会した。その後,劉先生と2人だけで話した後ホテルに帰った。

しかし硬座で8時間半も1人で身体がもつか考えながら,とりあえず明日26日は8時間半を乗り越えるために何も食べず,水もペットボトル1本で過ごすことを心に決めたのであったった。

食いしん坊さんの分も,おいしい大好きな羊肉を昼と夜にいただきました(*´ -`)(´- `*)srsr

平戸・鷹島踏査:2012年8月

201208hirado昨年に続き2012年8月20日〜23日まで,長崎県平戸市などの史跡を踏査した。

メンバーは,昨年度と同じ3名。鍋本由徳先生(日本大学通信教育部助教)・小川雄氏(逗子市教育委員会非常勤事務嘱託員,日本大学文理学部非常勤職員)と小生。小川氏は所用のため福岡にて合流。

20日:ANA243[羽田0830→福岡1020]。福岡空港→平戸(福岡市都市高速道路2号線:金の隈IC→九州自動車道→西九州自動車道:佐々IC→国道204号線)。西九州自動車道が相浦中里から佐々まで伸びていた。午後3時半前,平戸のホテル着。チェックイン後,歩いてすぐの平戸オランダ商館へ。1時間ほど見学。

滞在したホテルでは東京から持参したwifiの電波が圏外だった。パソコンでの作業をあきらめかけていたところfreespotが使えるとのことでストレスがなくなったため,毎日のブログ更新が可能にw 夕食では社長みずからが挨拶にきてキョどる。

21日:鍋本先生と小川氏は松浦史料博物館にて資料調査。小生は平戸を一周し12ヶ所を踏査。鄭成功廟に参拝した後,海上交通の目印である平戸島南端の志々伎山(しじきさん;347m),根獅子町(ねしこちょう)の小麦様の墓,生月島の島の館,木引町(こひきちょう)の冨春園・冨春庵(ふしゅんえん・ふしゅんあん;栄西が日本で座禅を組んだ跡・日本茶業発祥の地)などをまわった。

日本最西端の漁港・宮ノ浦では,船宿のご主人より声を掛けられてクルーズを誘われた。興味はあったが時間が足らず断念。

22日:お二人は松浦史料博物館にて資料調査,小生は鷹島を一周し11ヶ所を踏査。御厨(みくりや)から船唐津(ふねとうづ)までクルマごとフェリーに乗る初経験をする。岸壁でのバック船入れは柵がないだけに海に落ちないように慎重になる。元寇関連の11ヶ所を踏査。特に松浦市立歴史民俗資料館と隣接する同埋蔵文化財センターでは昨年度以来話題に上っている鷹島神崎(こうざき)遺跡の水中考古学展示がされているだけでなく,脱塩処理をしている海底から発掘した出土品そのものを見ることができて新鮮だった。

23日:帰り道。3人で昨日とほぼ同じルートを辿る。昨年は蚊に刺されまくったが,今年は蜂の来襲を受けながらの鷹島の10ヶ所を踏査(時間の関係で鷹島モンゴル村を除く)。鷹島→福岡空港(県道217号線→国道204号線→県道33号線→国道202号線→二丈浜玉有料道路→西九州自動車道→福岡都市高速道路)。ANA270[福岡1945→羽田21:25]。3泊4日の走行距離527.5km。

帰りの便は博多上空に雷雲が発生したため事前の便数本が遅延。自分たちの搭乗便は大丈夫だったが,電機部品の交換で遅れて出発した[福岡2005→羽田2200]。

羽田空港到着後に手荷物を受け取り,聖蹟桜ヶ丘行きのリムジンバス(22:25発)に間に合ったと思ったが満席のため乗れず。府中行き(22:40発)経由で京王線に乗り地元駅までたどりついた。駅のコンビニで買い物をして自宅に着いたのが24日の午前1時頃。

やはり出かけると新しい知見が必ずあることを改めて実感した。4月〜7月末は,初めての仕事が立て続けだったため研究・調査が出来ずじまいで凹んでおり,それを受けて知らないにうちに踏査することに不安を感じ,また研究も進まないままだったが,やはり来てよかった。今回もお誘い頂いた鍋本先生に感謝します。

写真は21日夜に撮ったオランダ商館のライトアップ。ピュアホワイトなライト(写真では色がちょっと変わってるけど)がカクテルのエックスワイジィー(XYZ)みたいでキレイですよね(*´ -`)(´- `*)srsr

開田の七人塚(長崎県松浦市鷹島町)

20120823takashima長崎県平戸市最終日(4日目)。

昨日で調査を終えたお二人とともに帰京する日。三人で平戸→鷹島→福岡空港→羽田空港へ。走行距離は約120km。今回も運転好きな小生一人で担当。

朝チェックアウトを済ませると,昨日と同じ時間のフェリーにて鷹島上陸(御厨〜船唐津;1日4便のみ)。鷹島の10ヶ所を踏査。帰りは鷹島肥前大橋から福岡へ(120分)。

昨日も書いたが,鷹島は元寇(1274年・1281年)の際,モンゴル軍が上陸し激戦が行われた主戦場として知られている。その中でも「開田の七人塚(ひらきだのしちにんづか)」は一家七人が受難した悲憤塚でもある。

文永の役(1274年)で,船唐津(ふなとうづ)も上陸したモンゴル軍は鷹島の島民のほとんどを虐殺した。その当時,この場所には人目につかない八人が住む一軒家があった。ところが,飼っているニワトリが鳴いたためにモンゴル軍に発見され,八人家族のうち七人が殺され,灰だめに隠れていた老婆一人が助かったという。それ以来,開田ではニワトリを飼わないと伝えられている。

石碑は昭和56年の元寇700年祭のおりに,所有者によって建立された。

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というか,あれはダミーなのかな? それとも行くの止めたのかな? どちらでも元気に過ごしているならばいいけど(*´ -`)(´- `*)srsr

鷹島モンゴル村(長崎県松浦市鷹島町)

20120822長崎県平戸市3日目。

お二人は引き続き終日資料調査だが,小生自身は6時間かけて隣の松浦市鷹島(南北約13km)の11ヶ所を踏査。昨日の平戸島と同様に島南部の船唐津から北部の鷹島モンゴル村まで,走行距離は昨日とほぼ同じ約120km。

車ごとフェリーに乗る初めての経験をした(御厨〜船唐津;約37分)。帰りは鷹島肥前大橋経由(約90分)。

鷹島は元寇(1274年・1281年)の際,モンゴル軍が上陸し激戦が行われた主戦場として知られている。そのため島内には多くの元寇にまつわる史跡が伝承が残されている。

史跡ではないが,モンゴル遊牧民の生活が体験できる鷹島モンゴル村は,1993年5月に開村した。モンゴルから輸入した約20棟のゲルに宿泊することができ,天然温泉も完備している。年間約3万人が訪れていたが,2009年の鷹島肥前大橋の開通後は約58万人と過去最高を記録した。しかしこの時期の施設拡充や人件費の高騰で,現在は経営改善が求められているという。

村は鷹島最北端にあたるため,村の通称“モンゴル高原”からは,天気が良ければ壱岐が望める。

一人だとずっと同じことばかり考える。しかもモンゴル繋がりなのもあるし。てか出発まであと少しですね。(*´ -`)(´- `*)srsr

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鷹島モンゴル村:http://mongol-mura.com/

千里ヶ浜鄭成功記念公園(長崎県平戸市川内町)

20120821hirado04長崎県平戸市2日目。

お二人は終日資料調査だったが,小生自身は6時間かけて平戸島(南北約45km)の12ヶ所を踏査。南は宮之浦(日本最西端の港町),西は隣の生月島,北は田の浦,走行距離約120km。

平戸生まれの鄭成功(1624-1662年)に関しては,平戸にいくつか史跡がある。

平戸市街から車で15分程の場所にある千里ヶ浜海岸(2008年に整備)には鄭成功記念公園がつくられ,駐車場に鄭成功に関わる史跡を紹介した大きなパネルが置かれている。公園の一角には鄭成功遺蹟碑(江戸時代後期に建てられた),少し離れた千里ヶ浜南側には鄭成功児誕石がある。母親の田川マツがにわかに産気づいて鄭成功を産んだとされるこの場所が今回満潮のため,ほとんどが一時的に水没していたのは初めて見る光景だった。また鄭成功居宅跡(観音堂には航海の守護神[女神]・媽祖が祀られている)も残されている。

隣接する丸山公園には,1962年(昭和37)に台南「延平郡王祀」より分祀された鄭成功廟がある。毎年7月14日には鄭成功祭り(鄭成功の誕生日;以前は5月8日の命日におこなわれた)がおこなわれ,台湾などから多くの鄭氏宗親会の人たちが訪れる。2003年に小生が初めて訪れたのもこの祭りに合わせてだった。

お仕事お疲れさまです。いろいろと少し凹むこともあるけど,もらったメッセージ通り元気に過ごそうね(*´ -`)(´- `*)srsr

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松浦史料博物館の動画より:
平戸で誕生したアジアの英雄・鄭成功:http://www.matsura.or.jp/mov03/index.html

以下,以前(2006年)のブログ記事より:
鄭成功廟:http://manju.livedoor.biz/archives/50811991.html
鄭成功居宅跡:http://manju.livedoor.biz/archives/50811993.html
媽祖廟:http://manju.livedoor.biz/archives/50811995.html
児誕石:http://manju.livedoor.biz/archives/50811996.html

昨年(2011年)のブログ記事より:
平戸踏査:2011年8月:http://manju.livedoor.biz/archives/51924047.html

平戸オランダ商館(長崎県平戸市大久保町)

20120820hiradoshoukan今日から長崎県平戸市に仕事で来てます。2003年に初めて来てから今回が4回目。

昨年2011年に来たときはオープン1ヶ月前(9月20日オープン)で見学できなかったため,今回の重要な懸案事項のひとつだった。

復元された1639年築造倉庫の白い壁に飾られた十字架は彼らがキリスト教徒の証しだが,キリスト教を禁止する幕府との間で一悶着あった結果,横幅が短く十字架に見えにくいデザインに落ち着いたともいわれる(写真下を参照)。

20120820hirado02建物内部は,木材を使用した骨組みで倉庫内部が復元されたり,大航海時代という見地から展示がなされたりといずれも興味深い復元建築物であった。

平戸オランダ商館:http://hirado-shoukan.jp/
よみがえる平戸オランダ商館(松浦史料博物館の動画):http://www.matsura.or.jp/oranda/index.html

2011年平戸踏査:http://manju.livedoor.biz/archives/51924047.html

別なことでも1年ぶりに懸案事項を解決したよ。詳しくは今度会ったときに話すけど,期待してよいので楽しみにしてて♪ (*´ -`)(´- `*)srsr

上溝(かみみぞ):神奈川県相模原市

kamimizo01恥ずかしながら上溝という町を知ったきっかけは,友人と温泉帰りにJR淵野辺駅前(相模原市)にあるつけ麺屋さんに抜けるルート上にあったことから(*´ -`)(´- `*)srsr 知り合いから紹介されたこのつけ麺屋さんは,今でも一番好きなつけ麺屋さんで気に入ってまs(ry

何度も通ったが,よく見ると交通の要所でもあるようで,偶然見かけた夏祭り(毎年30万人以上の人手がある「上溝夏祭り」という)では,上溝本町からJR上溝駅にかけて通行止めをしていた。また,相模原の一地方小都市としては,比較的賑やかな町並みが残されている(写真)ことから不思議に思っていたところ,生糸・繭などの取引を目的として明治3年(1870)に市場が開設されたために発展した相模原で一番歴史がある場所だと知った。

上溝は八王子から横浜へつながる「絹の道」の別ルート(八王子―上溝―[相模川]―厚木―横浜)でもある。

上溝公民館で頂いた無料の「上溝まち歩きいらすとまっぷ(企画編集:上溝商店街振興組合)」がなかなか便利(*´∀`♡

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上溝商店街振興組合HP:http://kamimizo.com/
上溝公民館HP:http://www.sagamihara-kng.ed.jp/kouminkan/kamimizo-k/

企画展「横浜港と生糸貿易」:横浜みなと博物館

yokohamaminatohakubutukanちょっぴしコーヒー味のクッキーを頂いてから,横浜みなと博物館に出かけてきました(*´ -`)(´- `*)srsr

日本丸の横にある横浜みなと博物館(旧横浜マリタイムミュージアム)は,横浜開港150周年の2009年4月24日(σ(・_・)の誕生日w)にリニューアルオープン。実は初来館。

常設展のある部分をじっくり見ていたら,解説員が「そこをじっくり見る方って専門家なんですよねw」といらぬ突っ込みをうけてしまった。その常設展も充実していて,展示品数や「めくってみよう」「フィールドへ行こう!」などの展示方法が飽きないように配置され,横浜開港資料館やシルク博物館,日本郵船歴史博物館,横浜都市発展記念館などと組み合わせて参観すると横浜の歴史が立体的に見えてくる。

博物館内にはライブラリー(図書室)があり,えほん・ずかん・歴史(子ども向け・マンガなど)/文学/横浜・神奈川/参考図書/歴史/風俗習慣・民俗学/国防/海洋学/海洋工学/造船/各種の船舶/軍艦/航海学/海運/旅客/海上労働/港湾/港運/運河交通/海洋レクリエーションに分類されている。博物館入館者は無料(入館料に含まれる)だが,ライブラリーのみは100円で入れる。基本的な図書は揃っているようなので,調べものがある時には,ほかの横浜地区の博物館や図書館と連係して使用するとよいかもしれない。

企画展「横浜港と生糸貿易−生糸が結ぶ産地と港−」は2月11日(祝)から4月8日(日)まで。_I由港と生糸,⇒⊇亞搬腓叛源綫源挫蓮き2I郵舛寮源緲⊇弌きだ源緞念廚琉篁困侶兢気らなり,以前紹介した岡谷蚕糸博物館などから資料出品をうけ,充実した展示内容だった。内容は追々紹介する。

もともと私の実家がある群馬県は養蚕が盛んな地域。自分自身の小さい頃の遊び場は桑畑であり,養蚕とは切り離せないぐらいなじみ深かった。とはいえ今回の企画展を見て,地元で旧富岡製糸場は見学したことはあったが,県立日本絹の里や群馬県絹産業遺産群なるものがあることを知った(小生が上京して以降にできたようなので当然かもしれない)。企画展パンフレットを購入(700円)したが買って正解(´ω`)

帰りは「絹の道」たる横浜線で八王子経由で帰ろうとしたが,別件で東京大学に用事があるため京浜東北線を利用。
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横浜みなと博物館:http://www.nippon-maru.or.jp/port-museum/
群馬県立日本絹の里:http://www.nippon-kinunosato.or.jp/
富岡製糸場と絹産業遺産群:http://worldheritage.pref.gunma.jp/ja/index.html

高橋是清邸:江戸東京たてもの園(東京都小金井市)

korekiyo02四つ葉のクローバーのラッピングリボンがついたクッキーを頂きました。まだ半分しか食べてないけど美味しかったよ,ごちそうさま!

四つ葉のクローバーは,日本人には「幸せを運んでくれる」アイテムとして有名だが,花言葉はかなり情熱的で「be mine(私のものになって;私を想ってください)」。日本人で花言葉で使う人はいないでしょうけど,いずれにしても,ありがたく受け取りますww (*´ -`)(´- `*)srsr

さて,午後には二・二六事件で暗殺された高橋是清邸が移築されている江戸東京たてもの園に散歩がてら行ってきた。

その風貌から“ダルマさん"と親しまれた高橋是清(1854〜1936年)は,教科書的には二・二六事件で暗殺されたことで記憶されるが,その他にも14歳で藩費留学生として渡米した際に奴隷として売られたり,帰国後に開成学校(現在の東京大学の前身。現・千代田区神田錦町)の英語教官となるが遊蕩に耽って職を辞め,芸妓屋の手伝いなどを経験したり,日本の特許制度の創設にあたったり,ペルー銀山出資の責任を取り家産を失ったりなど,エピソード満載の人物として有名である。

高橋是清邸は,1902年(明治35)に建てられ,もと港区赤坂七丁目(現・高橋是清翁記念公園とカナダ大使館)にあった。1936年(昭和11)二・二六事件の際,この建物の2階で青年将校の凶弾に倒れた。敷地と屋敷は東京市に寄付されたが,母屋部分が是清の眠る多磨霊園に移築され,平成に入って江戸東京たてもの園に再び移築された。

ここに来たのは2003年以来だから9年ぶり。
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江戸東京たてもの園:こちら
高橋是清(近代日本人の肖像):こちら

ちょっと昔の暮らし〜テレビから生まれたヒーロー〜:調布市郷土博物館

chouhu調布市郷土博物館では,4月15日(日)まで「ちょっと昔の暮らし〜テレビから生まれたヒーロー〜」と題して,主に1953年(昭和28)以降の暮らしや道具の移り変わりを展示している。

そのなかの「ウルトラマンと怪獣ブーム」では,現在調布市内で飲食店を経営するひし美ゆり子さんや円谷プロダクションの協力のもと,ウルトラセブンの台本や劇場映画の宣材をはじめ,カルタ・フォノシート・トランプ・怪獣ソフビ・文房具・雑誌・などのウルトラグッズが陳列してある。

ウルトラマンや怪獣ファンはともかく,子ども向け玩具の歴史変遷を知るための解説も充実しており,「映画のまち調布」ならではの特徴ある企画となっている。散歩がてらにどうぞ(´ω`)

☆調布市郷土博物館
展示期間:平成23年12月23日(金)〜平成24年4月15日(日)
開館時間:午前9時〜午後4時 ※入館無料
休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)・年末年始
住所:東京都調布市小島町3-26-2
交通機関:京王線「京王多摩川」駅より徒歩4分

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調布市郷土博物館:http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118850606/index.html
企画展資料:http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1327034153944/index.html
ひし美ゆり子のブログ:http://blog.goo.ne.jp/anneinfi
★あにblog★(nakamura_aniの日記):http://ameblo.jp/tac7/entry-11117192634.html(企画展示の写真あり)
台北飯店(食べログ:ひし美ゆり子さんのお店):http://r.tabelog.com/tokyo/A1326/A132601/13010179/


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八王子市郷土資料館「特別展:八王子と鉄道」:八王子市上野町

hatioujitotetudou(第1期)国鉄・JR線:平成24年2月7日(火)〜3月27日(火)
(第2期)私鉄線:平成24年4月10日(火)〜5月10日(日)

江戸時代の甲州街道最大の宿場町を基盤として,生糸・絹織物の産地でもあり群馬・秩父(埼玉)・山梨・長野から横浜(港より海外へ)への同品の中継点でもある八王子市は,明治22年(1889)に新宿−八王子間に甲武鉄道(現在のJR中央本線の一部)が開通したのを始め,多くの鉄道が敷設された。

私自身,日本の近代化に大きく関わる生糸・絹織物の輸出ルート(及び自由・民権思想の輸入ルート)としての「絹の道」や,その延長に位置する横浜鉄道(現在のJR横浜線),また京王線・小田急線・西武線など東京西部の私鉄と近現代の国家政策との関わりなどに興味があり,多摩市に引っ越ししてきた4年前より時間を作って八王子市を含む多摩地区を巡見している。さらに国鉄勤めをしていた2番目の伯父や先年亡くなった従兄弟から鉄道についてたくさん話しを聞かされていることもあり,来週から開催されるこの特別展には大いに期待している。

なお八王子市郷土資料館には昨年(2011年)8月13日に1度訪れている。展示品だけでなく出版物などにも力を入れている魅力ある資料館のひとつである。

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住所:〒192-0902 東京都八王子市上野町33
開館時間:9:00〜17:00
休館日:毎週月曜日,その他
入館料:無料

八王子市資料館ホームページ:http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/kyodoshiryokan/index.html

東洋文庫ミュージアム:東京都文京区本駒込

P1000337東洋文庫新本館が完成したのをうけて,2011年10月20日(木)より東洋文庫ミュージアムが開館した。ようやく今日時間がとれたのでお昼に初来館。

東洋文庫は1924年に岩崎久彌(三菱第3代当主)が設立した日本最古・最大の東洋学の研究図書館。国宝5点,重要文化財7点を含む約95万冊の蔵書数を誇る。その一部分がミュージアムとなっている。

ミュージアムは「オリエントホール」「モリソン書庫」「ディスカバリールーム」「回顧の路」「国宝の間」「知恵の小径」などに分かれ,フラッシュをたかなければ基本的に撮影可能。貴重なコレクションを多く所蔵する東洋文庫のこのような撮影許可という画期的な試みは,もっと大きく評価されてもよいと思う。

改装前の院生時代に何度か書庫に入れていただき,そこで貴重書を見せていただいたことがあったが,現在こうして多くの一般の方が普通にこのような機会をもてるようになったミュージアムの開館を歓迎します。今後はぜひ広く授業で活用したい。

というか,論文執筆のための資料閲覧に3階の閲覧室にも行かないといけないφ(.. )

写真は「モリソン書庫」
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住所:113-0021 東京都文京区本駒込2-28-21
開館時間:10:00〜20:00
休館日:毎週火曜日,12月30日〜1月1日
アクセス:駒込駅(JR,東京メトロ南北線)徒歩8分,千石駅(都営地下鉄三田線)徒歩7分
入館料:880円(一般)・680円(大学生)・580円(中高生)・280円(小学生)

東洋文庫:http://www.toyo-bunko.or.jp/
東洋文庫ミュージアム:http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/

平戸踏査:2011年8月

DSCF07502011年8月23日〜26日まで,長崎県平戸市の王直・鄭成功関連の史跡などを踏査した。

23日:NH247[羽田0945→福岡1135]。福岡→平戸(福岡市都市高速道路2号線:金の隈IC→九州自動車道→西九州自動車道:相浦中里IC→国道204号線)。

羽田空港では,同行の鍋本由徳先生(日本大学通信教育部助教)・小川雄氏(逗子市教育委員会非常勤事務嘱託員,日本大学文理学部非常勤職員)がともに知人と遭遇し,小生もニアミスをした。ほんと,世間は狭いですな(´ω`)

24日〜25日:平戸市内を踏査。

鄭成功遺蹟碑のある千里ヶ浜が2008年に鄭成功記念公園(写真)として新たに整備されており,碑はわずかながら移動していた。また鄭成功居宅跡には鄭成功の母・田川マツと少年時代の鄭成功の石像が建てられていた。さらに川内町には「平戸生まれのアジアの英雄:鄭成功生誕の地川内町」なる巨大な立看板まで見られた。

もともと鄭成功廟は台南からの分祀であるが,今回目にした川内町にある複数の鄭成功像の写真などをみると,近年では台南とのつながりを深めているような感触を得た。

26日:平戸→肥前名護屋城(国道204号線[唐津街道])→唐津城→福岡空港(国道202号線[唐津街道])。NH270[福岡1950→羽田2130]。

東京が雷雨とのことで17:30頃の羽田行きは欠航,小生らの搭乗する便も危ぶまれたが,結局100分遅れの21時30分に福岡を出て23時15分に羽田空港に到着・解散した。

すでに京王線の終電に間に合わないことは分かっていたためホテル泊を考えたが,京王深夜急行バスの存在を知り,モノレール→JR京浜東北線→中央線(深夜なので緩行)で新宿駅までたどり着くも,地元駅を通過する京王八王子行きは5分前に出発し(00:55)間に合わず。01時10分の府中駅行きに乗り,そこからタクシーを使って03時ちょうどに帰宅した(結果的にホテル泊より安く済んだ)。

平戸は2004年12月以来3度目の訪問。上にも書いたとおり,7年間の間に鄭成功関連の史跡にはいくつかの変化が見られたが,平戸に3泊したためゆっくりと見て廻ることができたのは嬉しい限り。お声をかけていただいた鍋本先生に感謝します。

祖大寿北京府邸(中国北京市西城区)

zujiajieHPトップの写真を更新。
2010年8月27日に踏査。

現在の名称は「西城区富国街3号四合院」。もと降清明将・祖大寿の北京府邸で、後に八旗官学、民国期には公立北京三中が置かれた。

1995年に北京市市級文物保護単位とされ、現在は清代の伝統的な四合院建築が復元されている。通常では中に入ることができないが、テレビドラマ「徐悲鴻」(江蘇電子台)や映画「譚嗣同」(長春電影製片廠)の榮禄邸などの撮影に使用されたとのことで、その内部を知ることができる。

胡同としての富国街及びバス停の祖家街として、祖大寿の名前は北京に残されている。

松山明清古戦場跡(遼寧省錦州市)

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2010年8月26日に踏査。

遼寧省錦州市松山新区の秦瀋客運専線(通称“京哈線秦瀋段”;秦皇島瀋陽間の新幹線専用線路)と102国道及び京瀋高速が走っている一帯は、清崇徳七年/明崇禎十五年(1642年)の松山の戦い古戦場である。

嘉慶帝の筆になる『太宗皇帝大破明師於松山之戦書事文』には「太祖一戦(サルフの戦い)而王基開,太宗一戦(松山の戦い)而帝業定」とあるように、明清交代の主要戦役のひとつ。

錦州南駅(新幹線駅)から程近い、錦州市松山新区松山弁事処村民委員会には、近年作られた城壁らしきものと、同じ近年描かれた「松山古城」「松錦大戦」「洪承疇被虜」3枚の壁画があった。

 

錦州市博物館(中国遼寧省錦州市)

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2010年8月26日に踏査。

ちょうど今年2月より、錦州市博物館では午前1000枚、午後500枚の「免費開放」をおこなっており、身分証(パスポート)をコピーされ、チケットをもらっての入館となった(ただし、チケットは入口で回収された)。

この錦州市博物館は、隣の広済寺古建築群と内部でつながっており、旧広済寺の建物も展示室として利用(「遼西抗日義勇軍之歌」「遼西民間工芸品展」「媽祖文化展」「甲午忠魂展」)されているが、当日はあいにく改装中で新館(写真。「遼西古生物化石展」「遼西地区民俗」)のみ見学ができた。

新館には、凌海市化肥廠から出土した明代「銅銃」が展示してあり、これが旧大凌河城関係の出土物である。

 

大凌河城址(中国遼寧省凌海市)

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2010年8月26日に踏査。

写真は、建設中の凌海駅の新駅舎。

1993年11月に市制が敷かれ、錦県から凌海市となったこの場所は、明崇禎四年/後金天聡五年(1631年)に、清太宗ホンタイジと明の将軍祖大寿との間で攻城戦がおこなわれた大凌河城址である。

大凌河城は、一辺420mの城壁をもっていたといわれ、現在の凌海駅は旧城の西北角に位置する。大凌河城そのものは攻城戦後に破却され、遺跡は何も残されていないが、旧城内中心部と思われる場所に比較的広い道路が走り、市政府が置かれていた。

地図及び車で走ったところでは、現凌海市の市街地は、旧城を東北部に置き、およそ旧城の4倍の広さをもつようだ。

興城文廟(中国遼寧省興城市)

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2010年8月25日に踏査。

興城古城の西南に位置する。明宣徳五年(1430)、遼東都指揮劉斌が創建した、中国東北部でも最も古い文廟である。

文廟は基本的に孔子の霊を祀った建物を指すが、目的は孔子にはない。他地域でもそうであるが、文廟内部には当時の石碑などが残され、現在では資料館が併設されている例が多い。そこで現地(遼西地域)の人物や情報を収集するのである。

編纂資料や档案資料をみるだけでは、扱われ方が小さく、現地出身の人物についてその役割や社会的な結合関係を看過しがちになる。しかし、現地を踏査することで現地の視点から確認することができる。

折しもこの日は偶然にも、神田信夫(明治大学)・松村潤(日本大学)・細谷良夫(東北学院大学)・加藤直人(日本大学)・中見立夫(東京外国語大学AA研)・石橋崇雄(国士舘大学)の各先生(肩書きは当時のもの)が興城古城を調査されてちょうど22年目(1988年8月25日)の同じ日であった。文廟には諸先生方が調査された時にはなかった石彫と碑林ができていた(2004年8月)。

小生自身としては、文廟には、名宦祠・郷賢祠や石碑などから、明末清初の遼西地域の様子を知ることができた。大きな収穫であった。

祖大寿石坊(中国遼寧省興城市)

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2010年8月25日に踏査。

興城古城内延輝街に位置する。明崇禎二年(清天聡三年/1629年)に建てられた。一時期、崩壊の危険性から解体されて文廟に置かれていたが、近年修復してもとの場所に立て直された。写真奥には族弟・祖大楽石坊がある。

祖大寿(不明〜1656年)は、字を復宇、寧遠衛(興城)の生まれ。もとの名を祖天寿といい、「祖家軍」と称される軍閥を率いて遼西地域に駐した。崇禎四年、大凌河城戦役で籠城するが、糧食が尽きたため清太宗ホンタイジに投降した。しかしそのまま離反。崇禎十五年(清崇徳七年/1642年)に捉えられ再び投降した。

石坊は、明末の政局が不安定な時期、祖氏離反を恐れた崇禎帝により、祖大寿及び彼の先祖が、明朝のために尽くしていることを褒め称えるために建てられたと伝えられる。

実際には、刻まれた文字と祖大寿の戦績図の意味する内容が興味深い。

興城古城(中国遼寧省興城市)

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2010年8月25日に踏査。

興城古城は、明朝宣徳三年(1427)に築かれ、寧前道兵備副使袁崇煥によって天啓三年(1623)に修築された。歴史上は寧遠城として知られている。城の周囲には城門があり、3274mの城壁で囲まれた比較的保存状態のよい古城のひとつである。

清太祖ヌルハチが生涯で唯一敗戦した場所でもあり、清太宗ホンタイジが手こずった遼西地域の軍閥・祖大寿の出身地でもある。

世界遺産に指定され、山西商人の拠点であった平遥古城(中国山西省晋中市)に比べると、はなやかさはないものの、その歴史的役割は平遥古城に劣ることはない。

現在の興城古城は乾隆四十六年(1781)に修築されたもの。城内は出入り自由であるが、城壁に登るのは有料である。鍾鼓楼・城墻・文廟・将軍廟・城隍廟・周宅の興城古城景区通票(オープンチケット)が城門入口等で50元で売っており、そちらが便利。

中国出張:2010年8月〜9月

2010年8月24日〜9月2日まで、2002年に滞在していた中国社会科学院近代史研究所主催の学会等に参加するため、中華人民共和国北京市・遼寧省へ出張。

8月24日:NH1285[0930(羽田)-1220(北京)] 。初羽田からのフライト。

8月25日・26日:遼寧省興城市・錦州市・凌河市踏査。

8月28日・29日:清朝満漢関係史国際学術討論会(中国社会科学院近代史研究所主催)

8月30日:「満学:歴史与現状」国際学術研討会(北京市社会科学院満学研究所主催)

8月31日・9月1日:エクスカーション(遼寧省承徳市寛城満族自治県)(北京市社会科学院満学研究所主催)

9月2日:NH956[0830(北京)-1300(成田)]

北京は合計2年住んでいたことがあるが、オリンピック後(再開発後)初めての訪問。ただ、ほとんど時間がなく、中国第一歴史档案館での資料調査や北京市内をゆっくり散策することができなかった。

日本最初のカフェ「可否茶館」跡:東京都台東区上野一丁目

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日本最初のカフェ「可否茶館」は、明治21年(1888)4月13日、東京下谷区上野西黒門町2番地に開店した。

創業者は鄭永慶(1859-1895年)。もと長崎唐通事の家系で、先祖は国姓爺合戦で知られる鄭成功(1624-1662年)の弟・田川次郎左衛門(のちに七左衛門)であるという。

当時の日本は、文明開化の全盛期であったが、鹿鳴館での高級官僚らの表面上だけの西洋文化の導入にあきれ果てたエール大学留学経験をもつ鄭永慶は、庶民や学生・青年のための社交場、知識の共有の場、情報交換の場としてのカフェの開店を決意した。

カフェは、市民による近代民主政治の出発点でもあった。

可否茶館は、本郷の東京大学を下った場所に位置し、トランプ・碁・将棋、新聞・書籍や化粧室・湯殿・ビリヤード場を併設していたが、そば1杯8厘〜1銭の時代に、コーヒー1杯1銭5厘(ミルク入り2銭)で提供していた。しかし4年後には閉店している。

本格的なカフェの誕生は、同じく日本がデモクラシーを迎え、都市住民の文化が花開く、四半世紀近く後の1911年のカフェ・プランタン開店を待たなければならず、可否茶館の誕生は時勢が早すぎたといえよう。

写真は、可否茶館があった場所。

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小生は2005年10月に、日本大学通信教育部の講義で可否茶館をとりあげている。当日の講義にかんしては→こちら

HP更新:佟家墳(中国北京市海淀区)

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一年半ぶりのHPトップページの更新。写真は佟家墳のバス停。

2002年7月と9月の2度訪れた。1度目は,劉小萌先生(中国社会科学院近代史研究所)と2人で,2度目は細谷良夫先生(東北学院大学教授),加藤直人先生(日本大学教授)と劉先生・小生との4人で。1度目に現地調査を済ませた際,何も遺構がないことが分かっていたため,2度目はこのバス停の撮影のみの立ち寄りとなった。

この「佟家墳」は,もと八旗漢軍旗人で現在は満族と民族登記している佟氏一族の北京における塋地のひとつである。佟氏は清太祖ヌルハチの時代に帰順した旧漢人で,清太宗ホンタイジ〜清世祖順治帝の時代にかけて清朝帝室と繋がりを強め,康煕年間には外戚として隆盛を極めた。詳しくは,綿貫哲郎「清初的旧漢人与清皇室」(『満学研究』第7輯,2003年11月)を参照のこと。

1度目の現地調査によれば,この場所には数基の墳墓と石碑があり,墓守(看墳人)の子孫某氏も残っていたというが,文化大革命期までに墳墓は切り崩され,某氏は1970年代初めに北京城内(市内)に移住し,その後この地はかえりみられなくなったという。

現在,中国国家図書館に佟家墳の「佟恒年誥封碑(康煕21年)」拓片が残されている。

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なお,細谷良夫先生(東北学院大学)退休記念の研究セミナーが,2009年3月13日(金)に東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研共同研究プロジェクト「東アジアの社会変容と国際環境」;東北学院大学アジア流域文化研究所共催)において開催されることが決定しました。後日詳細をアップします。

新宿御苑台湾閣(旧御涼亭):東京都新宿区内藤町

台湾閣1新宿御苑千駄ヶ谷門から入って少し歩くと台湾閣(旧御涼亭)がある。

この閩南建築様式をもつ建物は,1927年(昭和2)に皇太子(昭和天皇)御成婚記念として台湾在住の邦人有志から贈られたものであるという。

江戸時代の信州高遠藩内藤氏の下屋敷に起源をもつ新宿御苑は,1879年(明治12)に宮内省(現・宮内庁)管轄として皇室の庭園とされたが,戦後1949年(昭和24)には国民公園として一般公開された。現在は環境省の管轄である。

台湾閣(旧御涼亭)は,戦時中の空襲で新宿御苑が襲われたときも焼け残ったが,老朽化が激しく2002年(平成14)に保存修復工事が終わるまで立ち入り禁止であった。

台湾閣2設計者は森山松之助(1869−1949年)。台湾総督府(現・台湾総統府)・台北州庁(現・観察院)・台中州庁(現・台中市政府)・台南州庁(現・国家台湾文学館)などを手がけている。

新宿御苑台湾閣の創建についても,1923年(大正14)の皇太子(昭和天皇)台湾行啓にたいする返礼の意味があったといういきさつをもつ。

上写真の右側が台湾閣(車寄せ),左側が台湾杉。下写真は内部。建築材料にも台湾杉,台湾扁柏や台湾桧が使用されている。

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新宿御苑:http://www.env.go.jp/garden/shinjukugyoen/

都選定歴史的建造物:http://www.ee-tokyo.com/kenzoubutsu/shinjyuku-gyoen/taiwankaku.html

 

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管理人プロフィール

出身地:群馬県前橋市

履歴:高校卒業後,日中学院より中国に3年間留学。印刷関連会社勤務を経て,日本大学通信教育部(史学専攻)から日本大学大学院文学研究科史学専攻(博士前期課程)へ。日本大学大学院文学研究科東洋史学専攻(博士後期課程)満期退学。博士(文学)

現職:非常勤講師ほか

専攻:清朝史・満族史・東北アジア民族史・東アジア史及び満洲語文書資料。

タイトルの“tere inenggi”とは満洲語で“その日”という意味です。

現在,歴史学・東洋史・中国語(漢語)・コンピュータ情報リテラシー等の講師をしてます。講義では,できるだけ多様な視座を提供したいと模索中です。

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