tere inenggi

研究(満族史・清朝史・東アジア史)や講義(歴史学・東洋史・中国語[漢語]・コンピュータ)等の備忘録

HP更新記録

新学期

今日は4月1日、ワタヌキの日。衣替えですね。

あー、エイプリルフールもありましたね。

 

ども、お久しぶりです。

昨年末より、ほとんど更新かけていませんでした。楽しみにしてた方(いるのかな?)、すみませんでした。少々息切れしてしまったようです。今後はムリのない状況でブログを運営していきたいと思っています。

 

新学期になりましたが、小生に大きな変化はありません。相変わらずギリギリで生活しています。

ということで、今年度は控えめにいきたいと思います。

HP更新:佟家墳(中国北京市海淀区)

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一年半ぶりのHPトップページの更新。写真は佟家墳のバス停。

2002年7月と9月の2度訪れた。1度目は,劉小萌先生(中国社会科学院近代史研究所)と2人で,2度目は細谷良夫先生(東北学院大学教授),加藤直人先生(日本大学教授)と劉先生・小生との4人で。1度目に現地調査を済ませた際,何も遺構がないことが分かっていたため,2度目はこのバス停の撮影のみの立ち寄りとなった。

この「佟家墳」は,もと八旗漢軍旗人で現在は満族と民族登記している佟氏一族の北京における塋地のひとつである。佟氏は清太祖ヌルハチの時代に帰順した旧漢人で,清太宗ホンタイジ〜清世祖順治帝の時代にかけて清朝帝室と繋がりを強め,康煕年間には外戚として隆盛を極めた。詳しくは,綿貫哲郎「清初的旧漢人与清皇室」(『満学研究』第7輯,2003年11月)を参照のこと。

1度目の現地調査によれば,この場所には数基の墳墓と石碑があり,墓守(看墳人)の子孫某氏も残っていたというが,文化大革命期までに墳墓は切り崩され,某氏は1970年代初めに北京城内(市内)に移住し,その後この地はかえりみられなくなったという。

現在,中国国家図書館に佟家墳の「佟恒年誥封碑(康煕21年)」拓片が残されている。

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なお,細谷良夫先生(東北学院大学)退休記念の研究セミナーが,2009年3月13日(金)に東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研共同研究プロジェクト「東アジアの社会変容と国際環境」;東北学院大学アジア流域文化研究所共催)において開催されることが決定しました。後日詳細をアップします。

八旗漢軍旗人・范文程の墓(中国北京市懐柔区)

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HPのトップを更新しました。やはり専門の八旗漢軍旗人に関係する写真をおくと身が引き締まりますね。

写真は,2002年8月,劉小萌(中国社会科学院近代史研究所研究員)氏と中国北京市懐柔区を調査したときの一枚,紅螺山地区にある八旗漢軍旗人・范文程の墓。

范文程(1597〜1666年)は,字を憲斗,号を輝岳という。北宋の范仲淹の子孫と称し,太祖ヌルハチから康煕帝の四代に仕える。

万暦46年(1618)以来,太祖ヌルハチの側にあって献策をおこない,太宗ホンタイジ期には漢人をとりまとめている。八旗漢軍旗人のなかでも,まさしく「余人をもってかえがたい」人物。死後はここ紅螺山に元配陳夫人とともに葬られた。

現地では「范閣老」と呼ばれているとのことであったが,思いのほか1時間以上時間を費やしてしまった。結局,墓の近くを彷徨っていただけであったが,通りからだいぶ入ったところに墓を見つける。しかしながら,「一国の総理大臣まで務めた人物の墓にしては,石碑はともかく案内板すらなく,みすぼらしくさびしい限り」(劉氏談)。墓と言っても墓郭があるのみ。ほかは一切なし。墓は草むしりなどの整備すらされず,放置状態であった。地元の人に尋ねなければ,絶対に見つけられない場所。

この日は,紅螺寺と慕田峪長城を調査。よく覚えているのは昼食。何でもこのあたりは水が綺麗だとかで,川魚のお刺身頂いた。とても淡泊で,北京郊外の懐柔区に日本のワサビと醤油が置いてあったのには驚いた。

また,懐柔区は別荘地が多く,歴史ドラマで和珅(ヘシェン)が当たり役となった王剛もそのレストランの近くに別荘があるとのマニア情報(!?)をゲット(笑)。←あくまでも,2002年当時の情報です。

范文程については,遠藤隆俊「范文程とその時代―清初遼東漢人官僚の一生―」(『東北大学東洋史論集』6,1995年)に詳しい。

HP更新・旧定南王府(中国江西省桂林)

旧定南王府2002年12月に細谷良夫(東北学院大学)・劉小萌(中国社会科学院近代史研究所)両先生のお供をして、中国南部の現地調査をした。その際、立ち寄った場所のひとつが桂林であった。

史跡名勝は靖江王府(明初、朱元璋が族侄朱守謙を初代として封じた)。清の順治7年(1650)に孔有徳が桂林を占領し、定南王府と改名。娘の孔四貞、婿の孫廷齢を収め、三藩らとともに清初の南方経略をおこなった。

ところが2年後の順治9年(1652)、李定国軍が桂林を攻略、孔有徳は自刎して果てたのである。その後、ここは「貢院」として清末を迎える。

桂林にある孔有徳関係の遺跡は2ヶ所。ここの「定南王府」と「桂海碑林博物館」に存在する。「桂海碑林博物館」は後日紹介するとして、「定南王府」は現在は広西師範大学のキャンパスとなっている。ここの版元(書店でよく目にする歴史関係の出版社)は城壁の外側にあったが、時間の都合で立ち寄れなかった。

孔有徳自刎の図「定南王府」で、孔有徳に直接つながる遺跡は見つけられなかったが、校内には「靖江王府博物館」があり、そこには近年に書かれた「孔有徳自刎図」があった。図のなかの孔有徳は総髪であり、清朝政権に降伏した証である辮髪でなかったが、細谷良夫先生は「孔有徳は八旗に編入されていないし、以外と総髪だったのかもしれない」と、この「自刎図」をそのまま受け入れられていたのが印象的であった。

HP更新:二道橋からヘトアラを望む

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2003年8月23日〜24日,撫順・新賓での国際会議参加のため,現地へむかう。

日本からは,小生と小沼孝博(筑波大学・院=当時)氏の2人。いや,華立(大阪経済法科大学)先生も日本側と考えれば3人になる。

撫順の会議では,前年の調査でご自宅までおじゃまさせていただいた,張玉興(遼寧社会科学院歴史研究所)氏等と再会。撫順でのことは別に記述するとして,翌日新賓入り。ヘトアラ参観の後,時間が出来たので(というか,つまらない場所参観だったので),北京市社会科学院満学研究所の閻崇年所長ら数名とフェアラへ。その時の写真は,以前HPにアップしたことがある。

その帰り道,この二道橋に立ち寄る。

普度寺(旧睿親王府):北京市東城区

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故宮東華門でてすぐのところにある。清朝入関直後にはドルゴンの王府(睿親王府)がここにあったとされるが,ほとんど故宮内と変わらない立地場所。

ところで,ここは睿親王府であると同時にもう一つの歴史を持っている。もとは明朝の洪慶宮と呼ばれた。「土木の変」で捕らえられ,北京に戻された英宗が囚禁されていた場所でもあるのである。

HP更新:「広州市満族聯誼会」の看板

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前回の更新から1ヶ月以上空いてしまいました。ビンボー暇無しなんです。

前回(広州市満族歴史文化研究会(旧広州市満族連誼会))とほぼ同じ内容ながら,昔のカンバンを出しました。こちらのカンバンのほうが価値はあるでしょうね。なので室内でパチリ。こちらのカンバンが復活する日もそれほど遠くない気がするのはワタクシだけでしょうか。

HP更新:清孝陵[順治帝の陵墓]

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留学中の2002年7月に清東陵に行った際、一番東端にあったのが順治帝の陵墓・孝陵。

現在、順治年間の档案を講読しており、先月3月4日(土)もワークショップを大勢の方の協力のもとに開かせていただきました。それにしても、明末清初の漢文資料は多いけれど、順治年間の満洲語資料は少ないですね。

中央研究院近代史研究所(台湾)HP

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学術フロンティアのお仕事関係で、現在HP内部を閲覧中。

同館所蔵のアーカイブは、研究では現在でもたびたび利用しています。ただ今回のように、検索部分やアーカイブ部分をシステム構築面から閲覧するのは、少々肩が張ります。メモしながらの作業です。

近代史研究所だけでなく、歴史語言研究所も閲覧する必要あり。

よくよく考えてみれば、台湾には2002年6月に1週間滞在・調査(中央研究院歴史語言研究所/近代史研究所/傅斯年図書館および故宮博物院図書文献館)しただけで、しかも先生方(細谷良夫[東北学院大学教授]、加藤直人[日本大学教授])のお手伝いだったので、各研究所の档案資料などについては、北京に比べるといまいち把握していません。やっぱり、腰を据えて調査しないといけないかも。

・中央研究院:http://www.sinica.edu.tw/

・中央研究院近代史研究所:http://www.mh.sinica.edu.tw/index.htm

・中央研究院歴史語言研究所:http://www.ihp.sinica.edu.tw/

・中央研究院傅斯年図書館:http://lib.ihp.sinica.edu.tw/c/

・故宮博物院図書文献館:http://www.npm.gov.tw/ch/a060101.htm

施琅の墓の石人

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HPトップの写真を更新しました。

福建省泉州市にある施琅の墓の石人です。見ていただければ分かるように、左側が清朝の文官、右側が明朝の武官の格好をしています。この写真では、左端が墳墓なので、清朝の文官の石人が上位になります。

施琅はもと鄭成功の父親・鄭芝龍の与力でしたが、鄭芝龍が清朝に寝返ると、鄭成功のもとで活躍をします。のちに鄭成功と仲違いをし、妻子を殺されたため、清朝に寝返ります。それから約40年後、清朝軍の総大将として台湾を攻略、鄭成功の孫を降伏させます。石人は、このような施琅の立場を反映したものでした。

施琅については、井上祐美子「妃紅(フェイホン)」(『妃・殺・蝗』講談社文庫、2002年)が小説ですが、とても読みやすいと思います。

この時は、調査で泉州を訪れましたが、長年のライバル、鄭成功と施琅の子孫それぞれを訪問しました。ただ窓口となったのが、鄭氏側だったので、交流も主に政治協商会議側とでした。現在でも、祖先の歴史功績をめぐって、それぞれの子孫がいろいろと主張しております。詳しくは、細谷良夫・綿貫哲郎「泉州の鄭成功と施琅の史跡」(『月刊東方』273号、2003年11月)を参照してください。

中国第一歴史档案館

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HPを更新しました。

写真は「中国第一歴史档案館」。略称は「档案館」、或いは「一档」(南京に第二歴史档案館があるため)。「档案(とうあん)」とは、日本で言う「公文書」と考えて頂ければいいと思います。北京故宮の西華門の中にあって、主に明清期(16世紀から20世紀)の公文書を保管・管理してます。普通の観光客は入ることができません。

小生は、修士の時から、毎年こちらで満洲語資料を調査に行っています。2002年には、社会科学院近代史研究所に研究留学しましたが、その時も研究所にいなければ、档案館に通っていました。

当時は、朝8時から11時半と午後1時から4時まで開館してましたが、昼休みもなくなったようです。最近では、中国で『清史』編纂が始まったとのこと。小生は、全く詳しくありませんが、編纂にともなって、管理・閲覧が少々厳しくなったとも聞いています。体調不良のため、ここしばらく閲覧に言っておりませんが、最近の事情はどうなんでしょう。

そういえば、上述の入口の北側に閲覧者用入口があります。入館記録を書き、荷物を預ける場所があります。毎日、入館者にどのような先生方が来ていたのか眺めたり、荷物置き場のおばちゃんとお話しするのが、ちょっとした楽しみでした。

 

中国第一歴史档案館については、以下のHPを参照。

土居智典氏(広島大学):智典書院のなかの「中国第一歴史档案館あれこれ」が詳しい。ご無沙汰しております。

満洲語資料をアップしました

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←の写真では文字が完全に潰れていますが、HPではWORD版とPDF版をそれぞれアップしました。中国社会科学院近代史研究所に研究留学中の2002年に作成したものです。

「清朝皇帝簡略表」・「満漢年号対照表」及び「満漢干支対照表」の2点です。

前者は太祖ヌルハチからラストエンペラー溥儀までの名前(満漢)・廟号(及び諡号)・年号・生没年(即位年・在位年数)・享年(即位年齢)・陵墓名(埋葬地)・子女・備考(満漢文の避字)。後者のうち「満漢年号対照表」は満漢年号・年代・皇帝の名前・享年(即位年齢)、「満漢干支対照表」は十干十二支(満漢と日本)が簡単ですがまとめてあります。研究などの参考にして頂けると幸いです。

個人的に興味深いのは、避字についてです。避字とは、皇帝の尊さを示すためのひとつの表現方法である。文書等において皇帝の名前(=諱[いみな])と同じ漢字を書き記さなければならないとき、それを畏れ多いこととして、欠字(漢字の一画をあえて欠いておく)や異字(同音や同義)等を用いることを指すのは周知のことであるが、小生はそれが満洲語にまで及んでいることに大変驚いた。「李」を例にした場合、満洲語ではがんらい「li」と書き記すが、乾隆帝の諱(弘暦 hvng li)と同じ綴りなので、以降は「lii」と満洲語では記してある。満洲語文書で「lii」とあれば、基本的には乾隆年間以降に書かれた資料であると断定することができるのである。ただし、同治帝(載淳dzai xun)の「xun」は「xuwen」と忌避しながらも、太陽を意味する「xun」だけは不避というのもなかなかに「民族」性を感じさせるようで面白い。

なお、アップした資料等について、誤字や内容の誤りに関しては、小生は一切責任を負いませんので、悪しからず。

http://www.geocities.jp/manju1635/

シュルガチの墓

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2002年11月に劉小萌氏(中国社会科学院近代史研究所、小生が2002年に中国社会科学院近代史研究所に研究留学したときの受入責任者)と二人で中国遼寧省遼陽市で調査をおこなったときの一枚です。

この時は、遼陽・瀋陽を1週間ほどかけて調査をしました。遼陽では、東京城・碑林・シュルガチ・チュイェンの墓などをまわりました。瀋陽では、瀋陽故宮・瀋陽市社会科学院・北陵・東陵・遼寧社会科学出版社・碑林などを調査したり、地元の研究者や編集者等と交流しました。これらの調査については、後日HPで紹介したいと考えています。

さて、シュルガチは清太祖ヌルハチの実弟で、当初はヌルハチと同じくらいの権力・地位を持っていたと言われています。松村潤(日本大学名誉教授・東洋文庫研究員)「シュルガチ考」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社、1983年6月)にシュルガチの一生が詳しく論じられております。

http://www.geocities.jp/manju1635/

HPを更新:「档案庫」

『満族史研究』第4号「档案庫」を更新(作成)しました。

小生がお世話になっている、満族史研究会の会誌『満族史研究』第1号〜第4号までの目次を作成し、掲載しました。研究の参考にしていただけると幸いです。旧誌である『満族史研究通信』創刊号〜第10号分は、できあがり次第アップする予定です。

http://www.geocities.jp/manju1635/

北京市門頭溝区にある耿聚忠の墓

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HPトップの写真を更新しました。

耿聚忠って結構マイナーな(民人→)旗人です。それにしても、オリンピックがあるおかげで、これまでの北京郊外が郊外でなくなり、市街地に取り込まれています。門頭溝区は、まだ大きな問題はないだろうけれど、北京四環路から五環路にかけての墓地・墓碑や史跡は、何らかの憂き目にあっていることだけは確かです。

行政に任せたとしても、行き先不明やしまい込んでしまう恐れがあるので、これまた安全策ではないですねぇ。これまで以上に調査を急がないと。

イスラム美術展 宮殿とモスクの至宝(〜12・4)

無理矢理時間を作って、念願だった「イスラム美術展:宮殿とモスクの至宝」を世田谷美術館まで見に行った。

それぞれ分類されたテーマごとに、コーランや器などが並べられていたが、全く基礎知識のない小生にはもどかしくもあり、新鮮でもあった。偶像崇拝への禁止から幾何学模様をあしらったあらゆる器具もあれば、見慣れない動物や植物など「偶像」を記した器物もあった。これらの展示説明を細かく読んでいけば、イスラーム世界といえども、われわれの漢字世界(東アジア世界)と同じような「世界」が存在し、互いに交通し合い、摩擦し合い、それぞれの考えるイスラーム社会を形成していたことがわかる。

図録も買ったし、もう一度お勉強します〜。でも、カゼ引いた。                                                                                                                             

HPを更新しました

講義内容(2005年度)、同(2004年度)を作成、研究業績を更新

http://www.geocities.jp/manju1635/

ホームページ更新

ゲストブックを併設、研究業績を論文・翻訳部分作成(研究発表は後日)、更新記録をHP内に作成する。

http://www.geocities.jp/manju1635/

HPを作成しました

4年ぶりにHPをつくりました。以前は、個人趣味がメインでしたが、今後は学術研究にシフト替えします。このブログと併用するかたちで、HPには個人のデータや業績記録などを固定ものを設置し、このブログでは学術研究情報など、毎日の情報を更新していきます。URLは以下になります。どうぞよろしくお願い致します。

http://www.geocities.jp/manju1635/(綿貫哲郎の档案庫)

 

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管理人プロフィール

出身地:群馬県前橋市

履歴:高校卒業後,日中学院より中国に3年間留学。印刷関連会社勤務を経て,日本大学通信教育部(史学専攻)から日本大学大学院文学研究科史学専攻(博士前期課程)へ。日本大学大学院文学研究科東洋史学専攻(博士後期課程)満期退学。博士(文学)

現職:非常勤講師ほか

専攻:清朝史・満族史・東北アジア民族史・東アジア史及び満洲語文書資料。

タイトルの“tere inenggi”とは満洲語で“その日”という意味です。

現在,歴史学・東洋史・中国語(漢語)・コンピュータ情報リテラシー等の講師をしてます。講義では,できるだけ多様な視座を提供したいと模索中です。

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