後期の初回は,9月6日(土)午前10時から正午までの予定でしたが,諸事情により6日(土)は中止となることが,筑波大学・楠木賢道先生より連絡がありました。
再開の日程が決まりましたら。あらためてご連絡いたします。
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参加希望者は,筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。
研究(満族史・清朝史・東アジア史)や講義(歴史学・東洋史・中国語[漢語]・コンピュータ)等の備忘録
後期の初回は,9月6日(土)午前10時から正午までの予定でしたが,諸事情により6日(土)は中止となることが,筑波大学・楠木賢道先生より連絡がありました。
再開の日程が決まりましたら。あらためてご連絡いたします。
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参加希望者は,筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。
参加者は10名。松村潤先生はお休みされました。
七月十七日の途中(305L8)まで読んだ。所用にて30分ほど遅刻してしまい,途中からの参加となりました。
太宗ホンタイジが下した旨などを読んだ。皇帝から臣下へ下したもののようにも読めるが,実際にはこの内側に存在する旗王とその属下との関係を諭した内容。
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参加希望者は,筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。
写真は,「○gosin onco hūwaliyasun/ ^enduringge han i hese;(○寛温仁聖Hanの旨)」(/は改行,^は擡頭)部分。寛温仁聖Hanとは太宗ホンタイジのこと。
前期は今日まで。後期(次回)は9月6日(土)午前10時から正午までの予定。
現在,出張で熊本県熊本市に滞在しております(6日夜から9日夜まで)。
そのため,お休みさせていただきました。
今日の講読会は,どこまで進むのだろう( ´∀`)つ
参加者は7名。
七月十一日途中(279L1)から七月十六日途中(287L7)までの記事を読んだ。
内容は,鑲紅副都統Ušan・Ubahaiの盗米案件,太宗ホンタイジのうら盆会(収穫祭)の太廟(四祖[+武功郡王]・太祖と太后)・福陵(太祖と太后)での祭文,アダリ郡王の嫁取り,は太捐親王ドドの通達2種,ぢ製.曠鵐織ぅ犬ムンガトゥの病状を気遣った記事,ゥ茱罰勒の嫁取り。
特に「加筆」とみられる某記事は,その後の記事と関連しているとも考えられる。
また,ぅ疋匹「髪を上に束ねるな,素足にするな」と通達した記事は,満洲人に言ったもので,これまた興味深い。
次回は,6月7日(土)10時から正午まで(小生は出張のため参加できません)。
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参加希望者は,筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。
写真は,太廟祭祀での祭文より「da mafa hūturi neihe wang(肇祖沢王[ドゥドゥ・メンテム]); dergi mada fulin werihe wang(高祖慶王[ドゥドゥ・フマン]); unggu mafa be badarabuha wang(曾祖昌王[ギオチャンガ]); nanin mafa hūturi werihe wang(祖父福王[タクシ]);」の部分
5月31日(土)は満族史研究会第23回大会(於・日本大学文理学部)です。
参加者は7名。
七月八日(264L1)より七月十一日(272L3)まで。
内容は,…鮮国王の使者への賞賜,沈志祥を撫順所に出迎え,Mukdenに入城させる,D聖崗佑搬製.曠鵐織ぅ犬梁侈漫きさ化トメト及び張家口での交易,Adali郡王(正紅サハリヤンの子)の族下Dahataの案件など。プライオリティの問題で詳しく書けないが,かなり興味深い記事も2・3あった。
dorgi bithei hafasa:dorgi yamun のこと
benjime jihe:護送してきた(cf. unggihe jihe「遣わしてきた」とのニュアンス的な違い)
次回は,4月19日(土)午前10時〜正午まで。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
参加者は8名。
ただ,事情があって勉強会はおこなわれませんでした。
次回は,4月5日(土)午前10時から正午までです。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
参加者は8名。七月五日の一部(253L1〜254L6)と七月六日の途中(257L8)から七月七日(263L5)まで。
内容は、鑲藍旗のKamcihaとSeheiがSahaliyan Ula(ここではアイグンを指す)に出征したときの処罰の案件、¬惴鼎Tumetで公課を送りに来たjalan i jangginらへの賞賜、Muhutu貝子の妻を送ってきたJalaitのGuru Taijiへのもてなし、だ仂訶腓ら帰順したばかりの沈志祥の属下が大量に逃亡したことに対する、太宗ホンタイジの旨と沈志祥の返答など。
特に、い砲弔い討蓮▲曠鵐織ぅ玄身が、帰順以降の沈志祥の属下に対して、出征や清国内で疱瘡が流行ったりしたので、慈しむ時間がなかったことを反省するとともに、これから漢人の国(明国)を従わせたら、もう逃げる場所がなくなるから、よく考えるようにとメッセージを出している。
写真は、档案に記された「ume(書くな)」の文字。これが書かれた場合は、基本的に実録には載せられていない。
次回は3月15日(土)午前10時から正午まで。
3月1日(土)は諸事情により中止となりました。お間違えないようにお願いいたします。
2月27日(水) 追記
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
私用で休んでしまいました。休みたくなかったのですが,残念です。
今回は,松村潤先生をはじめ,岡田英弘・宮脇淳子両先生も参加されたとのことで,総勢10名にのぼったとのこと。
次回は23日(土)午前10時から正午まで。
2月7日(木) 追記
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
今年二回目の講読会。参加者は5名。六月二十九日途中(239L6)から七月朔日途中(247L9)まで。
前回からの続きで,.肇瓮抜成立,▲肇瓮箸波家,及び公以下meiren i jangginら以上が商売した内容。
,砲弔い討蓮ご訴犬任魯肇瓮抜を八旗(官)編成に改編したように読めるが,満文では主に世職の内容に主眼がおかれている。小生が確認しても,勅書(世職根源冊)のフォームそのものである。結局は,トメトに清朝の世職を与えてその統治に組み込むも,その体制は従来通り変更なく,さらに相応しい満洲名の八旗官名をかぶせたものと考えられる。ちなみに,このときトメト旗は両翼13ニル編成。
△砲弔い討蓮Hanが出征した際に,八家を中心に商売をおこなっているが,その時4万両以上の銀が動いている。出征のついでのような記事であるが,その膨大な銀の量にも驚きである。
写真は,トメト旗のnirui jangginの世職を任じた部分。ただし,後尾に「ese niru bošombi(これらの者はniruを領催する)」と世職でもあるけれど,同時に八旗官にも任じている(組み込んでいる),同名nirui jangginを混乱しないようわざわざ加筆してある。
次回は2月2日(土)午前10時から正午までです。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
今年最初の研究会。参加者は7名。六月二十日(234L11)から六月二十九日(239L5)の途中まで。
小生は久々の出席。
SunitのTenggisのAbatuにお上から賞賜したもの,鑲白のDadaiら八旗官の人事,正黄Yang Šoi jangginの家人Yangjuなど数件の審理案件,ね藩院とトメト都統旗成立の記事などを読んだ。
aisirakū 副理官(ただし,崇徳年間の呼称は未確認のため,順治実録より;乾隆実録などでは「副理事官」)
jakūn hūdai ba 八交易処(八家jakūn booの交易処)
asara 収容せよ(「皮島から連れてきた夫がいない女,母子を収容せよ」の収容することの意味→身の立つようにする;Yanjuが娘を奪い犯したことに対する審理は,「八交易処に各一日晒して殺した」)
崇徳三年時点の八旗官の移動や審理案件では,兵部・吏部・刑部などが,きっちり・細かくルーティンワークをおこなっていたことが分かる。ただ,それだけで当時の清朝に官僚制度が確立されていたとは断定できない。各旗人官僚の主(あるじ)は別に存在していた。
国政にかかわる重要案件は,皇帝を中心に王公などが会議をおこなっていたが,これら会議の内容は記録には書かれていないことも理解しなければならない。
六月二十九日には,蒙古衙門を理藩院と定めた(写真下)。しかし,乾隆年間までの記録では,蒙古衙門と理藩院とが併用されているという。
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王鍾翰先生の告別式の通知が来ましたので,転載させていただきます。
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訃 告
著名歴史学家、民族教育家,中央民族大学終身教授,優秀的中国共産党員王鍾翰教授因病医治無效,於2007年12月12日凌晨2時55分在北京逝世,享年95歳。
王鍾翰教授遺体告別儀式定於2007年12月19日10時在八宝山革命公墓大礼堂舉行。
謹此訃聞。
王鍾翰教授治喪辦公室
二○○七年十二月十三日
聯系電話:
010−68932473
010−68932442
010−68933971
伝 真:
010−68933983
010−68932473
010−68932813
清朝史・満族史の専門家で中央民族大学教授の王鍾翰先生が、12月12日逝去されました。享年95歳。
ここに謹んで哀悼の意を表します。
歴史学会第32回大会での報告のために休ませていただきました。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
風邪でお休みさせていただきました。
朝4時頃にゾクッと来ました。急に寒くなり始めましたので,みなさまもご自愛下さいませ。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
本日は私用にてお休みしました。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
参加者は6名。五月九日(201L1)から五月十一日(204L5)まで。
Jasaktu郡王の使者とBingtu王の来京,鑲紅旗MalahiらがSahaliyan Ulaに出征した時の案件,正藍旗のSuihedeの案件,鑲黄旗のŠušu・正黄旗のTakjuらの案件,ダ鞠魎の李天貴ニルの案件,盛京城から遼河までの道の補修などを読んだ。
baime jihe 頼ってきた/hūfun 雑糧粥;大麦を煮た,雑穀の粥。消化が良い(N)/giyangnabumbi 説明させる
季永海・劉景憲『崇徳三年満文档案訳編』(遼瀋書社,1988年)では,北京図書館所蔵の青焼きを使用しているが,原本は同じ中国第一歴史档案館所蔵のものである。しかしながら,『訳編』では誤訳が少なくない。
haha be dahara sunja yan weile(男丁を随える五両の罪;随丁五両の罪):季永海氏によれば,天聰四年に随丁銀制度が成立したというが,内容は不明である。(N)
盛京城から遼河まで道を修理する時に出す人数について,「八家の披甲からはじめ,一niruの各六十披甲,三順王の甲兵を全て出して」は,booi niru+各niru(ごとに60披甲)+三順王の甲兵だとしたら,相当な人数となる(N)が,いかがであろうか。
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上は今日の研究会より,小生の気になった部分のみを抽出。Nは楠木先生の発言であるが,もし誤認があれば,その文責は小生自身にある。
参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
次回は,10月6日(土)午前10:00から12:00まで。
今年後半最初の研究会。出張中の方が多いため参加者は4名。5月5日(194L11)から5月8日(200L8)まで。
偽証し処断されたHoto貝子(アジゲの子)は,Bolo貝子(アバタイの子)・Olosecen(ダルハン=エフの子)の前で私怨を晴らし再び罪に問われる場面がある。しかしよく読むと,逆ギレして再び処断されたのではなく,「huwesi ašume gashūha turgunde 小刀をくわえ誓った故に」とあることから,天を祀るのは皇帝の独占権という部分に抵触したと考えられる(N)。
nakambi:止める/guwebumbi:ゆるす←→waliyambi:ゆるす
hurgen:一組の犂と数頭の牛(N)
この時期の清朝の収入:〔斑規定に割当られていない(jakūn gūsai albani jeku gaijara haha;=専管ニル)人丁からの穀物,八旗全体で経営している荘園(jakūn gūsai sibartai de albani weilehe八旗のSibartaiにおいて公課で耕作した),支配下の漢人より(jakūn gūsai boso gaijara irgen八旗の布を取る民の漢人;ice toksoとfe tokso[天聰5年の大凌河戦役を境としている];kubun tarire albani tokso棉を栽培する公課の荘園;dabsun fuifure albani tokso塩を煮詰める公課の荘園;その他)(N)
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上は今日の研究会より,小生の気になった部分のみを抽出。Nは楠木先生の発言であるが,もし誤認があれば,その文責は小生自身にある。
参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生(N)の言葉。
次回は9月15日(土)です。時間は10:00〜12:00。
本日は,テスト採点作業やその他のお仕事が終わらないため,お休みしました。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって,入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに,清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号,2006年9月,184頁)とは,楠木先生の言葉(N)。
本年度後期は,9月1日(土)と9月15日(土)です。時間は10:00〜12:00。
参加者は6名。4月25日から5月1日の途中まで。
新満洲(ice manju)という用語が見られる。通常は康熙十二年(1673)以降に松花江中流域から連れてこられた人々を指す言葉であるが,ここでは広く新たに収容した人々(ここではWarka)を指しているのであろう(N)。
nase hengke:シロウリ(王瓜) 楠木先生(N)によれば,nasan hengkeを王瓜と言うそうで,王瓜とはシロウリのことという。
ingtoo:桜桃(サクランボ)
gisun fonjici:言葉で問えば すなわち拷問ではなく…(N)
五月について,漢文実録では巻二十八,満文実録では巻二十七のままであるという(N)。また,番号187のウラは2行マイクロに撮影されていない。この理由は明らかではないが,ウラ映りした部分から推測することは十分可能である(N)。
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次回は7月21日(土),夏休み前最後の研究会です。夏休み後は9月1日(土)と9月15日(土)です。時間は10:00〜12:00。
参加者は9名。4月21日から22日まで。
4月22日の記事に,Yoto貝勒の新夫人と旧夫人の争いが記されている。
たんなる高位身分の女性同士の争いではなく、大きな背景があることが見て取れる。
次回は7月7日(土)午前10時〜正午まで。
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2ヶ月ぶりの参加。小生の前回参加は入院前の3月3日。
北千住は鬼門らしく,また構内で迷ってしまった。そのため研究会には10分ほど遅刻。
参加者は7名。4月16日から20日まで。
日本の「島原の乱」情報が掲載されていた。また,トゥメト=モンゴルに荘園(tokso)を賞賜する記事などがあった。遊牧民よりも農耕民に近いモンゴル人の記録である。
oose:倭子
kooli selkiyere yamun:弘文院
次回は6月16日(土)。第一土曜日の6月2日(土)は満族史研究会大会(於・神戸大学)です。
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本日もまた,非常勤先の研修のため,お休みしました。3回連続です。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって,入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに,清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号,2006年9月,184頁)とは,楠木先生の言葉(N)。
本日は,非常勤先の研修のため,お休みしました。お仕事じゃあしょうがない。残念です。
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次回は4月第3週21日(土)の予定。
本日はやんごとなき私用にてお休みしました。
今年はこれまで皆勤だっただけに残念。来年度(4月から)はがんばります(笑)。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生の言葉(N)。
次回は3月第5週ですが31日(土)の予定。今回はお休みしたので,あくまでも前回時点でのお話しですが。
参加者は6名。4月9日から4月26日まで。
4月9日。遼東辺牆の外側に柳条辺牆を作る記録。これは漢文の実録では分からない。(N)
4月10日。「1旗に各一名のgabsihiyan(後の前鋒),各5名のbayara(のちの護軍),跟馬人(kutule)各3名,これらの者にAliha hecen(遼陽城)に駐防しに行った兵56名,合計104甲を……云々」とあるが,この104甲には跟馬人(kutule)は含まれない。(N)
4月15日。太廟に供えたもの。ホウレンソウのsogiとは,現在のシボ(錫伯)語で,「菜」とともに,「おかず」の意味を持つ(N)。ちなみに,下記の訳は楠木先生のご尽力によるもの。これからは「満文の野菜といえばナンムー(楠木)」のようです。(N)
namu(チシャ;生菜)
bula sogi(ホウレンソウ;菠菜)
cin sai(キンサイ;芹菜)
yun tai sai(アブラナ;溽刑據
4月22日。「同じその日Sibe(シベ:錫伯)のAbai・Aminこの2人が20貂皮を公課(alban)として送ってきた。」とあるが,この時期のSibeは,この文の前にあるホルチン=モンゴルの隷民。以前,楠木先生が論文(楠木賢道「ホルチン=モンゴル支配期のシボ族」『東洋学報』70-3・4,1989年)で書かれているように,ホルチンの隷民ながら,清朝へも直接公課を納めるという,二重の首長権が設定されていることが,ここからも読み取れる。(N)
次回には,沈志祥の記録がある。沈志祥は崇徳3年に清朝に投降するが,その投降の受入に関して,清朝側があまり積極的でなかったようで,上陸する前→石城島から上陸したあとも,しばらく放って置かれている。『清史稿』やその他の記録には,あまり詳しく書かれていないが,今講読しているのが,崇徳3年なので満文での記録を大いに参照することになるだろう。
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生の言葉(N)。
次回は3月17日(土)午前10時から12時,東洋文庫にて。3月第5週の31日(土)も,現在のところ,開く予定。
今年3回目の研究会。
参加者は5名。3月8日から4月9日の最初まで。
3月24日。sarin de+[tulergi] goloi wang, beile se meni meni bade fakcara doroi šangname buhengge(酒宴で[外]藩の王,貝勒らが各々の地に別れる礼で,賞賜したもの。[ ]内は加筆)上都城のとなりのKeibungでの出来事。goloi wang(後にtulergiが加わるが)で「藩王」とあるのは珍しい。(N)
同じ3月24日。貂皮(seke dahū)・狐皮(dobihi dahū)・豹皮(yarga dahū)など,それぞれ賞賜する場面があるが,貂・狐は東北部で獲れるが,豹皮はどこから来たのか。(N)
3月28日,Halgūn Muke(熱河)に宿営,翌3月29日,Ulan Hada(赤峰)に宿営。
4月初4日の留守部隊の記事が,わざわざ詳細に加筆されている。読むかぎりでは留守部隊を誹謗する内容へと変化。(N)
G'o ci ciyan 高起潜
Joo Niowan sung 周元忠(両目が全く見えない。JeoをJooに改筆)
4月初9日。正藍旗のjanggin張朝璘が疱瘡か麻疹になって瀋陽(Mukden)を離れることに関する案件。慣習法かどうかは不明。文面を見ると,どうやら疱瘡に罹った際は,都から離れるきまりがあったらしく,突然張朝璘が行方不明になったことからこの案件が始まる。
吏部が調べると,家で寝込んでいるはずがいない。疱瘡(実際には麻疹だったらしい)のため「自らの旗の疱瘡を調べるMacing yoo」に知らせて離京したが,Macing yooは「行くな」「聞いていない」と供述を一変二変した。結局,疱瘡であろうが麻疹であろうが,病状が出たときに離京するのが道理なので,張朝璘には罪なく,Macing yooに鞭打ち100回の罪が下された(銀33両3銭3分で罪を買い取った)。
mama 疱瘡・あばた
ajige mama 麻疹・吹き出もの
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参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生の言葉(N)。
3月の講読会は,通常通り3日(第一土曜)と17日(第三土曜),共に午前10時から東洋文庫にて
本年度2回目の研究会。
参加者は7名。3月5日から6日までを読んだ。モンゴル王公による返礼。6日には,後に挿入された巻狩の記事。知らないで読んでいると単なる一過性の事件に過ぎないが,杉山清彦先生(駒澤大学)の解説をうかがっていると,満洲旗人をめぐる,いくつかの構造が見えてくるのがとても興味深い。
参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生の言葉。
本年最初の研究会。
参加者は7名。今日から新しい参加者が加入。
3月1日の途中から同4日まで。前回読んだ部分(「遼陽の城をDurbi城のように築けといった」云々)の続き、及びモンゴル王公の叩頭・献じた物、返礼などを読んだ。
参加希望者は、筑波大学・楠木賢道先生(kusunoki@histanth.tsukuba.ac.jp)まで。「満洲語史料を利用した清朝史研究を志すものにとって、入関前の満文档案史料をテキストとして満洲語読解力を養成するとともに、清朝史の基本知識を習得することは肝要なことであると考える。一人でも多くの参加者が現れることを期待する次第である。」(『満族史研究』第5号、2006年9月、184頁)とは、楠木先生の言葉。
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deduhe 宿営した。→indehe 宿営した(同じ場所での延泊)
参加者は7名。2月18日から3月1日の途中まで。
2月18日に,「遼陽に城を築いた。遼陽を改めてAliha Hecenと呼んだ」とある。実録にはない表現である。トランスクリプションを作成された楠木賢道先生(筑波大学)によれば,こののち3月1日に「Durbi城のように築け」という部分が見えることから,或いは瀋陽を中心とした,北の出城的役割としてのDurbi城,及び南の出城的役割としての遼陽城かもしれないと,現時点でのお考えを述べられた。
その他,朝鮮国から蒙古に馬を買わせるために遣わした者が持って行ったものとして,「水獺皮170,海獺皮13,緑斜皮130,小刀110,dai1500」の「dai」が不明であった。
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今年はこれで終了です。来年は1月20日(土)午前10時から東洋文庫にて講読始めです。