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研究(満族史・清朝史・東アジア史)や講義(歴史学・東洋史・中国語[漢語]・コンピュータ)等の備忘録

瀋陽・遼陽調査(2002年10月29日〜11月2日)

瀋陽北陵(昭陵):中国遼寧省瀋陽市

ホンタイジ022002年11月1日,劉小萌(中国社会科学院近代史研究所研究員)氏とともに瀋陽東陵(福陵)をあとにして,遼寧省社会科学院歴史研究所に関嘉禄・佟永功両氏を訪ね会食。

当時のメモには,劉氏と関氏・佟氏の会話にまじり,小生の師匠筋の話題に花を咲かせたとある。

その後,頼んでおいた資料(段ボール3箱分)を購入し,国際郵便局より日本の実家へ郵送。劉氏のおかげで1時間ほどで終了。

それから急いで,瀋陽北陵(昭陵)へ。以前2度訪れているが,全く様相を異にしていた。当時のメモには「公園はきれいに整備されており,遊園地はなくな」り,「南口の広場には新たに,満漢の額がつけられ」ていたとある。

関嘉禄氏が,2001年2月の北陵保存に向けた瀋陽市人民代表大会の席上で,「北陵は“陵”であって“園”ではない」などの意見によるものであった。

ホンタイジ01その結果,2001年9月,瀋陽市政府は北陵公園の131ヶ所“占建”を取り壊し,改めて同地を“復元”した。満漢扁額【写真下】はその時に掛けられたもので,左側のeldengge mungganの満文は関氏が記したものである。

夜は,以前宿泊したことのある鳳凰飯店の前を通って,ご招待を受けて張玉興(遼寧省社会科学院歴史研究所)氏のご自宅へ。氷点下の外気とはうって変わって,張氏のご家族がそろって温かく出迎えてくださったことに感謝。壁一面の書棚や書籍には,小生には全く縁がないもので圧倒されるばかりであった。夜は張氏による接待。

翌日,朝9時の電車で北京へ。今回は,劉氏の考えで瀋陽居住の研究者やその関係者とたくさん会談した。(2007年6月15日一部修正)

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☆ときどき尋ねられますが,このブログで紹介した(する)のは,実際の現地調査のごく一部にすぎないことを申し述べておきます。

瀋陽東陵(福陵):中国遼寧省瀋陽市

ヌルハチ012002年11月1日,遼寧省博物館より瀋陽東陵(福陵)に向かう。

瀋陽東陵は,瀋陽市の東北約11キロ地点にある清太祖ヌルハチの陵墓。2004年に瀋陽北陵(昭陵)・新賓祖陵(永陵)及び瀋陽故宮とともに世界遺産に登録された。

1991年冬,1993年夏に継いで3度目の訪問。当時は世界遺産登録に向けてか,大分整備されていた。

ヌルハチ02天聡3年(1629)創建,康熙年間完成。清朝入関後にも康熙10年(1671)から道光9年(1829)まで,康熙・乾隆・嘉慶・道光の4皇帝が10回東巡し,福陵を訪れている。

福陵には,エイドゥ(eidu,額亦都;1562-1622)とフィヨンドン(fiongdon,費英東;1564-1621)の二人の功臣が陪葬されている。

なんかベタですな。ネタは授業で。←やる?

達海敕建碑(遼寧省博物館):中国遼寧省瀋陽市

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2002年11月1日,中国社会科学院近代史研究所の劉小萌氏と瀋陽・遼陽調査に出た3日目,遼寧省博物館を訪ねた。

折しも,遼寧省博物館は改装中とのこと。劉氏が知人を探すも不在。博物館の方の好意で,博物館裏に放置してある「達海敕建碑」(康煕9年,1670)【写真中央の石碑】を見学。

ダハイ(達海,Dahai)は,満洲文字を改良したことで知られる。書き言葉としての満洲語は,万暦27年(1599),清太祖ヌルハチの命を受けたエルデニ(Erdeni)とガガイ(G'ag'ai)がモンゴル文字に倣い,話し言葉としての満洲語を記すために創作したのが始まりである。天聡六年(1632),清太宗ホンタイジはダハイに命じて,さらに字母の右側に丸や点(圏点)を付け加えさせた。前者は無圏点満文(旧満文),後者は有圏点満文(新満文)と区別される。

さて,碑文調査であるが,大きな5匹の「番犬」が石碑を守り,私たちの進入を許さなかったので調査は断念。写真にある角度から数枚撮影したのみ。

このダハイの石碑については,鴛淵一『満洲碑記考』(目黒書店,1943年)に満漢碑文や日本語訳,さらには経歴などが記載されている。

大金喇嘛法師宝記(遼陽博物館):中国遼寧省遼陽市

大金喇嘛法師宝記碑2003年10月31日,劉小萌(中国社会科学院近代史研究所研究員)氏と共に,遼陽博物館を調査したときの一枚。

この石碑は,清太宗の天聡四年(1630)に建てられ,もと蓮華寺(喇嘛園,または喇嘛塔園)にあった。

説明版によれば,蓮華寺は,太祖ヌルハチの時,モンゴルから来て仏法を弘伝したチベットラマ法師の斡禄打児罕嚢素喇嘛が入った地であり,また入寂した地であり,墳塋の所在地でもある。

このラマは,天命六年(1622)に遼陽に来たが,まもなく病のため入寂した。その時は戦時的急要のため碑は建てられなかったが,天聡4年になって,ようやく清太宗ホンタイジの旨を奉じた佟養性によって設置された,と記されている。

すでに劣化が激しいためガラス版で囲んでいるが,実物を目にできるのは嬉しい。

書体は満漢二体で,満文は無圏点。

鴛淵一『奉天と遼陽』(富山房,昭和15/1940年),同『満洲碑記考』(目黒書店,1943年)などでは,チベット仏教と清朝との関係に言及するが,現在の遼陽では,背面に記された曹雪芹の先祖(五世祖の曹振彦)との関係に着目している。

この後,遼陽博物館にて,その他の多くの石碑を見学し,書籍を購入。街中を散策し,夕方瀋陽に戻った。

何和礼敕建碑(遼陽博物館):中国遼寧省遼陽市

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2002年10月31日,劉小萌(中国社会科学院近代史研究所)氏とともに,曹雪芹記念館を後に,遼陽博物館に向かう。

ここには,いわゆる「遼陽碑林」があり,明清期の価値ある石碑が多く展示されている。

とりわけ一群をなしているのが,清初五大臣の一人ホホリ(Hohori,何和礼)一族(ドンゴ氏,Donggo)に関するものである。

「何和礼敕建碑」(順治13年/1656)【写真上】はそのひとつ。

このほか,「端荘固倫公主敕建碑」(ホホリ夫人,ヌルハチ長女。康熙五十五年/1716)【写真下】,「哲爾本及夫人墓碑」(ジェルベン,Jerben,哲爾本)と夫人(康熙23年/1684)),「何芍図誥封碑」(ホショトゥ,Hošotu,何芍図。順治13年/1656),「彭春誥命碑」(ポンチュン,Pongcun,彭春,康熙23年/1684),またポンチュン等がホホリや曽祖母(ホホリ夫人の端荘固倫公主)等の骨骸を遼陽に移す経緯を記した「建園遷墓碑」(康熙五十五年/1716)などの満洲文や満漢合璧の石碑が展示されている。

端荘固倫公主碑小生は修士課程の時,東洋文庫所蔵の佐領家譜(後藤智子「東洋文庫所蔵武職及佐領家譜について」『満族史研究通信』7,1998年を参照)にドンゴ氏関係が多かったことから,一時期興味を持ってゼミ報告したことがあった。

なお,ドンゴ氏と清朝帝室との深いつながりについては,鈴木真「雍正帝による旗王統制と八旗改革−鑲紅旗旗王スヌの断罪事件とその意義−」(『史境』第42号,2001年3月)に詳しい。

曹雪芹記念館(遼陽):中国遼寧省遼陽市

太子河2002年10月31日,東京城・東京陵より市内へ戻る(写真上は太子河)。

遼陽市文物管理委員会に立ち寄り情報交換。

その後,曹雪芹記念館へ。

周知のとおり,『紅楼夢』を著した曹雪芹の祖先は遼陽の出身。『大清太宗実録』巻18には「墨爾根戴青貝勒多爾袞属下旗鼓牛彔章京曹振彦有功,加半個前程」とある。この曹振彦が曹雪芹三世祖であり,曹振彦−曹璽−曹寅−曹頫−曹霑(雪芹)と続く。

遼陽・曹雪芹記念館(呉公館)展示内容は,遼陽に残された3つの碑文,『大金喇嘛法師宝記』(天聡4年6月/1630年)の「教官曹振彦」,玉皇廟の題名にある「致政曹振彦」(天聡4年9月),弥陀寺の「曹世爵、曹得選、曹得先」(崇徳6年/1641年)の3つの碑文と,現存する宗譜とを比較し,曹雪芹と遼陽との深い関係にふれている。

東京陵:中国遼寧省遼陽市

2002年10月31日,東京城から東京陵に向かった。

以前もシュルガチ墓については,このブログで紹介している。

シュルガチ墓東京陵には,ヌルハチの祖父ギオチャンガ(Giocangga,覚昌安)と父タクシ(Taksi,塔克世)等以下の一族を葬っていたが,ギオチャンガとタクシは順治15年(1658)永陵に改葬され,現在は弟シュルガチ(Šurgaci,舒爾哈赤)とムルハチ(Murhaci,穆爾哈赤),長男チュエン(Cuyen,禇英),ムルハチの子ダルチャ(Darca,達爾察)の墓が残されている。

ムルハチ・ダルチャの石碑鴛淵一『奉天と遼陽』(富山房,昭和15/1940年)の「図版4」に掲載されたシュルガチ墓の写真と2002年時点(写真上)とは異なり,コンクリートの補修がなされている。細谷良夫編『中国東北部における清朝の歴史−1986〜1990年−』によれば,ムルハチ・ダルチャ墓に関する記載に,「墳墓は共にコンクリート補修が行われているが,これは『満洲国』時代の修理」とある。或いはシュルガチ墓のコンクリート化もその時期のものかもしれない。その他,「満洲国」時代にこの東京陵に建てられた石碑(写真下の一番奥)がある。

東京城:中国遼寧省遼陽市

遼陽駅2002年10月31日早朝,劉小萌(中国社会科学院近代史研究所)とともに瀋陽から遼陽にやってきた。

遼陽は現在,地方の一都市に過ぎないが,本来は東北アジアの中心地のひとつであり,中国内地・朝鮮半島・内陸アジア・東北アジアからの人々が交錯していた。

かつての繁栄の名残こそ全くないが,かなり大きな都市だったことは丸一日滞在したことで,身をもって感じた。

東京城さて,まずは東京城跡に向かった。1622年(天命7),ヌルハチは東京城に遷都した。1625年に瀋陽に遷るまでの約3年間,国都が置かれた。

現在,遺構はほとんど失われているが,南門である天佑門が修復され残されている。細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡−1986〜1990年−』によれば,1986・87両年にここを調査した細谷良夫先生(東北学院大学)によれば,門の上部は崩れたまま,門額は当時遼陽博物館に保管されたとあり,城楼は存在しなかったことがわかる。

城門内部に資料館があり見学した。昔の写真(のコピー)がたくさんあり,展示方法から,現地の人々が考える,この東京城の歴史的位置づけが理解できる。

東京城から外をみる1960年2月,遼陽市人民政府によって市級文物保護単位に,1988年12月,遼寧省人民政府によって省級文物保護単位に認定されている。

写真下は,城から外をみたもの。

瀋陽碑林:中国遼寧省瀋陽市

瀋陽碑林2002年10月30日,瀋陽故宮を後に,遼寧民族出版社に向かう。劉小萌先生の旧知である編集者の呉晰陽女史と3人で昼食。

昼食後,遼寧省民族研究所へ。編集者数名と情報交換し,『満族研究』など数冊を入手。

その後,瀋陽碑林へ。

石塔篆刻で記されている門額が「“沈”陽碑林」なのはご愛敬。入るなり目に飛び込んできたのは,まだ整理されていない石碑に混じって,戦前の日本軍関係のものと思われる日本式の石塔の下部分である。真ん中写真には,「奉天駐箚/歩/兵/第三十三聯隊/将兵一同」と見える。

院内には,明清時代の石碑がならんでおり,そのなかには,歴史上有益な資料も存在する。

明成化23年(1487)建立の「重修瀋陽長安禅寺碑」には,曹雪芹の族祖である曹輔や曹銘の名前が刻されており,曹雪芹の先祖が瀋陽一帯に影響を持っていたことを知る上で,貴重な資料といえる。

エイドゥの石碑また,清朝関係では,清初五大臣の一人,エイドゥ(Eidu,額亦都)の破損した石碑(順治11年4月18日)が保存されている(下写真)。エイドゥの墓は,盛京福陵(清太祖ヌルハチの陵墓)の西北2キロの場所に陪葬されるかたちで,瀋陽市東陵区英達郷にあった。

エイドゥは,天命6年(1622)6月,遼陽で没した。ヌルハチは「大哭了三次」し,遼陽に葬られた。天聡元年(1627),弘毅公を追封され,ヌルハチの陵墓が完成すると,陪葬させた。

入関後,康熙・乾隆・嘉慶・道光の各皇帝による東巡時には,みなエイドゥを祭っている。その時に詠んだ,多くの御製詩から,死後も大切に扱われたことが分かる。

文化大革命によって,エイドゥの墓は破壊され,風水の好条件にあった土地には,5つに分断された石碑が,1981年10月に墓地から運び出されたのを最後に,何も残されていない。

見学後,再び遼寧省民族研究所の研究員の方々と夕食。昼食と同じく,東北特有の大皿料理の量にびっくりし,更に白酒をたくさん飲む某女性研究員に2度びっくりした。その方は,何事もなかったように帰宅した。

我々も,夕食後,宿舎に戻った。

瀋陽故宮・崇謨閣:(中国遼寧省瀋陽市)

崇謨閣:扁額2002年10月30日,瀋陽故宮を調査し,崇謨閣に向かう。文溯閣(四庫全書の収蔵先のひとつ)でないところが満族史・清朝史らしいでしょ(←ひとりツッコミ)。

崇謨閣(bodogon be wesihulere k'o)は,乾隆11年から同13年(1746〜1748)にかけて盛京皇宮内建てられた。清朝歴代の『実録』『聖訓』等の書籍が収められた場所である。

満族史・清朝史研究に関しては,『満文老档』『満洲実録』が収蔵されていた場所としてよく知られている。神田信夫「『満文老档』から『旧満洲档』へ」(『満学五十年』刀水書房,1992年)には,内藤湖南による『満文老档』の発見は,1905年(明治38)10月11日附の富岡謙三宛の絵ハガキに「太祖太宗二代の満文記録二百余巻を発見し大いに悩み居候」とあることから,同年9月28日から10月11日までの間に発見したことが明らかにされている。

崇謨閣:全体内藤湖南が苦労して焼き付けてきた『満文老档』は,京都大学文学部図書館及び東京大学綜合図書館に現存する。

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『無圏点档子』:Tongki fuka akū hergen i dangse

『有圏点档子』:Tongki fuka sindaha hergen i dangse

瀋陽故宮・清寧宮:中国遼寧省瀋陽市

清寧宮2002年10月30日,劉小萌(中国社会科学院近代史研究所研究員)氏と共に,瀋陽故宮に佟悦氏を表敬訪問し,故宮内部を訪れた。

写真は,清寧宮(genggiyen elhe gung;上写真は扁額)。もと清太宗ホンタイジ(Hong Taiji,皇太極)と皇后ボルジギット氏の寝宮で,天聡10年(1636)に名付けられた。宮殿は鳳凰殿後方,高さ4メートルの高台にあり,正面ではなく東側に正門(中国語で“口袋房”),入ってもうひとつ門があり,その内側すぐが寝所。西側には神堂があり,シャーマン祭祀をする場所であった。逆コの字の環炕(オンドル;中国語で“万字炕”)が置かれている。入関後の北京故宮の乾寧宮に,その配置・意義は受け継がれている。

1643年,ホンタイジはここで薨じた。

清寧宮:宮殿

“口袋房”や“万字炕”は,共に北方民族独特の寒気にあわせた建築様式のひとつ。

小生が,満族史・清朝史研究をはじめる直接的なきっかけとなった場所。そういえば,昔「清寧殿」なるHPがあったなぁ(笑)。もうないけれど。そういう意味づけをしたサイトでした。

瀋陽故宮・大政殿と十王亭:中国遼寧省瀋陽市

大政殿2002年10月29日から11月2日まで,当時中国社会科学院近代史研究所訪問学者として中国北京市に滞在していた小生は,劉小萌(中国社会科学院近代史研究所)氏と共に,瀋陽・遼陽へ現地調査におもむいた。

10月29日夜,北京を出発し,翌朝瀋陽北駅に到着。

瀋陽の宿は,当時馴染みかけの東横イン東陽閣(現,瀋陽北駅前)。開店記念と小生が最初の日本人とのことで,最上階の部屋をだいぶ割り引いてもらった。

十王亭荷物を置いて,まずは瀋陽故宮へ。2004年に世界遺産に登録されるが,この時は一応小綺麗ながらも登録前だった。大清門向かいにある事務所に佟悦氏を訪ね,お話しをうかがう。その後,佟氏の案内で故宮内へ。

故宮は1991年12月,1993年6月に続き3度目の訪問。

大政殿にある玉座は,元から瀋陽故宮に現存していたものではなく,北京故宮から1970年代に移したものだという(細谷良夫編『清朝東北部における清朝の歴史−1986〜1990年−』平成2年度科学研究費補助金(総合研究B)成果報告書,1991年)。

十王亭:図大政殿の東側には「安達礼墓碑」と「十王府影壁(十王とはヌルハチの子・ドド[多鐸]を指す)」が展示されている。

また,十王亭内部は,八旗の衣装や武器などが展示されている。十王亭は大清門と並びが平行ではないことが,今でも気になる(下図)。また,従来のものと十王亭の左右翼の順番がだいぶ異なることが同上書で指摘されている(下図)。

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管理人プロフィール

出身地:群馬県前橋市

履歴:高校卒業後,日中学院より中国に3年間留学。印刷関連会社勤務を経て,日本大学通信教育部(史学専攻)から日本大学大学院文学研究科史学専攻(博士前期課程)へ。日本大学大学院文学研究科東洋史学専攻(博士後期課程)満期退学。博士(文学)

現職:非常勤講師ほか

専攻:清朝史・満族史・東北アジア民族史・東アジア史及び満洲語文書資料。

タイトルの“tere inenggi”とは満洲語で“その日”という意味です。

現在,歴史学・東洋史・中国語(漢語)・コンピュータ情報リテラシー等の講師をしてます。講義では,できるだけ多様な視座を提供したいと模索中です。

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