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研究(満族史・清朝史・東アジア史)や講義(歴史学・東洋史・中国語[漢語]・コンピュータ)等の備忘録

上野国箕輪城主長野氏関係

伝・箕輪城主長野業盛の墓:群馬県高崎市井出町

伝・長野業盛の墓「伝・長野業盛の墓」は群馬県高崎市井出町にある。

いくつかの紹介文では,同井出町の意玉山慈法院大円寺内にあると書かれているが,境内でなく大円寺から西へ500メートルほど離れた井野川左岸にある(遠くから分かるように紅白のポールが立てられている;写真下を参照)。

同地には,大正10年(1922)に,長野業盛公墓碣保存会が立てた墓碑(弘称院殿箕山法輪大居士霊位)がある。

業盛墓園・遠景長野業盛(ながの・なりもり)は,箕輪城主・長野業政の嫡子である。永禄四年(1561)に長野業政が病没すると,14歳の右京進業盛があとを継いだ。

長野業政は,臨終の際,自分の死を隠しておくように遺言するが,間もなく武田信玄に洩れ,同年中に上州攻めが開始された。山内上杉氏を守り通した鉄壁の一大防御網も,長野業政が誇った箕輪衆も,業政の死後,武田信玄の諜略の前に瓦解したのである。

永禄九年(1566)九月,武田信玄の軍勢は箕輪城を攻めた。武田軍約2万に対して,迎え撃つ箕輪勢は約5千。この合戦で長野家家臣の藤井友忠は武田勝頼を迎撃し,組み伏せて討ち取る寸前までいったが,原昌俊が勝頼を助け,逆に藤井は討ち死にした。

長野業盛は意を決して,矢島久左衛門や上泉信綱等の残兵を率いて,大手口から大薙刀をふるい,武田の軍勢に割って入り,28人を切り捨てた。しかし圧倒的な軍勢のため形勢は逆転せず,業盛自身も負傷してしまった。業盛は城内に戻ると,御前曲輪の持仏堂に入り自害した。享年19歳。家臣数十名がこれに殉じたが,業盛の遺児・亀寿丸(2歳)は家臣によって落ち延びている。

春風に梅も桜も散り果てて 名のみ残れる箕輪の山里(長野業盛,辞世の句)

落城後,僧の法如が遺骸をこの地に埋葬したという。昭和62年8月に高崎市史跡に指定されている

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google map:場所はこちら(中央長方形のところ)

長野氏の出自と浜川館跡:群馬県高崎市浜川町

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写真は浜川館跡の地に立つ榛名神社。

戦国時代に山内上杉家のために活躍し,武田信玄の軍勢を数度にわたり撃退し,大河ドラマでは,真田幸隆との間は人情味あふれる物語を展開した箕輪城主・長野業政らの出自は明らかではない。

後世につくられた記録からは,在原業平が貞観七年(865)に上野国守に任ぜられ,孫の業重(なりしげ)が吾妻郡長野原町に居住して長野氏と称し,業重または業重の孫の業国(なりくに;業康[なりやす]とも)が浜川館(群馬県高崎市浜川町)に住んだと記載されている。

現在残されている長野氏に関する資料のほとんどは,江戸時代に記されたものであり,かの在原業平(ありわらのなりひら)を祖先とし,石上姓を名乗っているとある。「系譜の偽作性」については,現代的な「偽造」「改竄」で一蹴してはいけない問題であり,その目的や意図を探る必要がある。

現在,長野氏の祖として考えられているのは,もと上野国衙の在庁官人として働いていた石上姓と深い関係にある一族という。在原業平の祖・阿保親王は承和元年(834)に上野守となり,石上朝臣兼親は天喜二年(1053)に上野権介に任じられている。

浜川は旧東山道沿いにあり,上野国衙(前橋市元総社町)と近距離にあることから,実際に上野国衙で執務を担当していた石上姓と深い関係にある一族が,旧「奈加乃」郷に住み,郷名をとって長野(奈加乃=ながの)氏としたという(吾妻郡長野原町は誤り;現在も浜川の南側に「長野」の地名がある)。

また,戦国時代の武士の多くが,源・平・藤原(主に俵藤太=藤原秀郷)など武人を祖としているなかで,長野氏が文人である在原業平を祖としているのは,おそらく石上姓と深い関係にあった長野氏自身が在庁官人(文官)の子孫であるからと考えられている。

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伝・長野業盛の墓は,長野一族の墓地(長純寺や長年寺)でなく,この浜川館跡に隣接するように置かれている(下記の地図を参照;明日分にて紹介)。

同地(浜川町)の来迎寺(時宗)には,長野氏累代墓地と称される27基の14世紀後半から17世紀前半の墓石群が存在するが,詳しいことは不明である。

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google map:場所はこちら(地図下に榛名神社,左上に来迎寺,右上に伝・長野業盛の墓がある)。

NHK大河ドラマ「風林火山紀行」:群馬県藤岡市(平井城址公園)・高崎市(箕輪城跡)

本日(2007年8月26日),放送されたNHK大河ドラマ「風林火山」第34回「真田の本懐」はよかったすなぁ。

専門家でなくてよかったなす(笑)。小生13歳の時から現在まで24年間,池波正太郎『真田太平記』のファン(いずれブログで紹介したい)なのもあり,今回は,三男の源五郎も初登場でした。源五郎は後の真田昌幸(信之・幸村兄弟の父)ですね。長男の信綱の出番もあり,次男の徳次郎(昌輝)もそれなりに顔を出していますし。この二人(信綱・昌輝)は長篠の合戦で討ち死にしてしまいます。

長野業政も名前だけでしたが出てましたね。しかも,ドラマ上の話だけれど,海野家再興に理解を示したとのこと。人情に温い部将ですなぁ。いいですなぁ。

それで,ドラマ後の「風林火山紀行」では,第34回「ゆかりの史跡へ」を流していました。藤岡市の平井城址公園と,高崎市の箕輪城跡を紹介していました。榛名神社も紹介していましたが,その際長純寺蔵の長野業政の木像も映像化していました。

小生,20年以上前,群馬県立博物館でおこなわれた,上州の戦国武将の展示(企画展の名前は失念)の際,許可をもらって長野業政(その他は,沼田平八郎,井伊の直政の具足など)の写真をとりました。その時より長野業政の木像が補修されていました。20年以上前の写真とはいえ,プライオリティやロイヤリティの関係でここにアップできないのが残念です。

本ブログの上州箕輪城主長野業政関係のものは,今月23日(木)から28日(火)まで続きます。群馬県の戦国大名にもこんな人物がいたことを知ってもらいたいと思っています。

上泉伊勢守信綱の墓(曹洞宗恵雲山西林寺):群馬県前橋市上泉町

上泉伊勢守信綱墓上泉信綱(かみいずみ・のぶつな;1508年〜1577年頃)は,はじめ秀綱と称した。最初は伊勢守,後に武蔵守。

新陰流の創始者として知られる上泉信綱は,最初,箕輪城の長野業政・業盛父子に仕え,「上州の一本槍」と謳われた。箕輪城落城後は,武田信玄に仕えることを断り,諸国流浪の旅に出て新陰流を広めた。

足利義輝(室町13第将軍),柳生宗厳(柳生心陰流の祖)など多くの門弟を持ち,正親町天皇の前で剣技を披露したこともある。

上泉伊勢守信綱碑文竹刀の発明者としても知られる。

現在,群馬県前橋市上泉町西林寺に墓(写真上)がある。墓前には,当時の内閣総理大臣福田赳夫(群馬県出身)が揮毫した「剣聖 上泉藤原信綱顕彰之碑」が昭和54年(1979)に,当時の前橋市長藤井精一や国会県議会議員・市町村長・地元有力者らによって立てられたほか,諸田政治(戸山流居合道範士;前橋市出身)氏による「剣聖上泉信綱公略譜」が平成10年(1998)に立てている(写真中)。

この時期(1970年代中〜1980年代後半),地元前橋市では宅地造成など大規模な開発がおこなわれ,それにともない新・旧住宅地で「新たな郷土意識」が「創成」された。そのメルクマールとして,多くの新興住宅地で盛んに「町誌」が編纂されている。地元出身の内閣総理大臣である福田赳夫揮毫の石碑と背面に記された御歴々の氏名を見ると,当時その重要な拠点のひとつとして上泉伊勢守信綱が担わされた役割を垣間見ることができる。

上泉伊勢守信綱旗来年2008年は,上泉伊勢守信綱生誕500年とのことで,町内のあちこちに幟旗が飾られていた。なにか催しものが予定されているのか興味あるところである。この場所は実家すぐ近くなので,気に留めておきたい。

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西林寺HP:http://www012.upp.so-net.ne.jp/yumeno/index.html

西林寺:google mapはこちら

長野氏歴代の墓(曹洞宗長年寺):群馬県高崎市榛名町下室田

長年寺長年寺は,群馬県高崎市榛名町下室田(しもむろた)にある曹洞宗の寺院(写真上)である。創建は文亀元年(1501),開祖は長野業政の祖父・長野業尚(なりひさ),開山は白井双林寺三世住職曇英(どんえい)禅師という。

寺には,長野氏歴代の墓(写真中)がある。長年寺開祖で初代鷹留城城主の長野業尚(法名:慶岩長善庵主)[中央]・長野憲業(信業とも;法名:南方長宗庵主)[中央右となり]・長野業氏(法名:以山長伝居士)・長野業政(後述;写真下)・長野業固(法名:傑山長寅居士)[中央左となり]・長野業茂(法名:一渓長派居士)[右端]・長野業続(法名:安山長康居士)[左端]である。

長野氏歴代の墓(長年寺)寺の裏手は鷹留城があった。箕輪城防衛の重要な城郭であり,支城であった。武田信玄は箕輪城攻略にあたり,この鷹留城と箕輪城との連絡を分断することを念頭においており,このことから鷹留城なくして箕輪城が存在しないことを窺い知ることができる。

長野業政は,12人の娘を西上野などの諸将に嫁がせて,一大防御網を構築したことはすでに記したが,それは以下の12人である。

長野業政の墓(長年寺)‐幡城主(群馬県甘楽郡甘楽町)小幡尾張信定,国峰城主(群馬県甘楽郡甘楽町)小幡図書助景定,I霏国忍城主(埼玉県行田市)成田下総守長泰,せ殻松襦雰嫁聾高崎市木部)木部宮内少輔定朝,ヂ膰余觴隋雰嫁聾吾妻郡吾妻町大戸)大戸左近兵衛,ο妥直觴隋聞盧蟷垤眈渉)和田業繁,Я匆賁郛觴隋雰嫁聾高崎市倉賀野町)家内淡路守景秀,┗尾城(群馬県吾妻郡長野原町羽尾)羽尾修理亮,厩橋城主(群馬県前橋市大手町)長尾彦太郎,鷹巣城主(群馬県安中市板鼻)依田某,浜川城主(群馬県高崎市浜川)浜川左衛門尉,鷹留城主(群馬県高崎市榛名町)長野弾正忠業固。

しかし,長野業政が没すると,武田信玄の諜略によって,この一大防御網はもろくも瓦解してしまう。永禄九年(1566)六月,約2000の武田軍によって鷹留城は攻略された。

長野業政の法名は「一清長純居士」,寺の記録には,没年「永禄三庚申年六月二十二日」とある。

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長年寺:google mapはこちら

箕輪城跡:群馬県高崎市箕郷町西明屋・東明屋

箕輪城跡案内図箕輪城跡は,群馬県高崎市箕郷町西明屋・東明屋にまたがる地域にある。

1500年頃,長野氏によって築かれた。築城者はおそらく長野業尚(なりひさ;尚業[ひさなり]とも)で,信業(のぶなり)・業政(なりまさ)・業盛(なりもり)の約60年間にわたって,長野氏が拠点としていた城である。

現在,その遺構は残されているが,それは徳川家康の江戸入府によって城主となった井伊直政時代(1590〜1598年;当時12万石;1598年に高崎[和田]に移城したことで廃城となる)時代のもので,長野氏時代とは追手口(大手口)と搦手口が真逆になっているなど,改築の跡が大きい(写真上に現在の縄張り有)。

長野時代箕輪城絵図平井城(群馬県藤岡市西平井)に拠っていた山内上杉の上杉憲政が,天文二十年(1551)に越後に逃れてからは,上野守護代の各長尾氏(白井[群馬県北群馬郡子持村]・総社[群馬県前橋市総社町植野])とも連携を強め,北条・武田の侵攻に備えた。

長野業政は,箕輪城と鷹留城(鷹留長野氏;群馬県高崎市下室田城山)を中心として,12人の娘を西上野の諸将に嫁がせて一大防御網を作り上げた(写真中は長野氏時代の絵図;旧箕輪城二の丸跡にて)。

永禄四年(1561;諸説あり),長野業政が病没すると,同年12月には武田信玄は北条氏康とともに倉賀野城(群馬県高崎市倉賀野町)を攻めた。同時に西上野諸将を諜略し,箕輪衆は崩れ始めた。永禄九年(1566)九月,箕輪城は落城し,城主・長野業盛らは討死。ここに戦国大名としての長野氏は滅亡した。

箕輪城御前曲輪跡(右奥に井戸)箕輪城は,地元では武蔵寄居の鉢形城,常陸太田城とともに関東三大名城のひとつにあげられている。また,群馬県内の城址でも,太田市金山城址や月夜野町名胡桃城址と共に日本史を構成する上で重要な城でもある。金山城址は昭和9年に国史跡指定をうけており,名胡桃城址も昭和24年(昭和18〜19年に動き有り)に県指定史跡となった。これらの動きを受けて,昭和56年(1981)11月26日に当時の箕郷町長を筆頭に箕輪城址保存会が設立され,昭和62年に晴れて国指定史跡を受けた。

写真下は,長野業盛ら一族が自刃した御前曲輪。奥の井戸は昭和2年に遺構が発見され,復元されたもの。

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google mapはこちら

長野業政の墓(曹洞宗金富山長純寺):群馬県高崎市箕輪町

2007年のNHK大河ドラマは「風林火山」。

長純寺:外観これまで,戦国時代の群馬県については,武田・上杉・北条三国争奪の舞台で,強力な戦国大名不在の地として知られている。とはいえ,弱小ながら戦国大名については箕輪城主・長野業政(ながのなりまさ)が地元では知られていたものの,まだ全国区ではなかった。

ところが,大河ドラマの「風林火山」で長野業政が温かみある人物として登場(演・小市慢太郎;23話[6月10日]・24話[6月17日]・30話[7月29日]・37話[9月16日予定]・46話[11月18日予定])しており,話題となっている。群馬県出身者としては嬉しい限り。

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長野業政(ながのなりまさ)は,業正(なりまさ)とも書かれる。墓は長純寺と長年寺(榛名町;後日紹介予定)にある。

長純寺:本堂長純寺は,群馬県高崎市箕郷町富岡原山天台851にあり,明応六年(1497),長野業政の父・長野信業(のぶなり)によって,鬼石町の永源寺四世幻室伊蓬禅師が招かれて開かれた。当初は,箕輪城の南に位置する上芝(現・高崎市箕郷町上芝;この時はまだ箕輪城は築かれていない)に置かれていたが,弘治年間(1555〜1558年),業政の母親の十七回忌にこの地に移されたという。寺には長野氏の家紋・檜扇(ひおうぎ)が記されている(写真中)。

業政は,西上野(にしこうずけ;群馬県西部)の箕輪城(群馬県高崎市箕郷町;平成18年[2006]1月23日に高崎市と合併)に依り,天文二十年(1551)年に山内上杉氏の上杉憲政が越後に逃れてからは,西上野の武士団を糾合し,数度にわたり武田信玄の軍勢を撃退している。

『箕輪軍記』「長野信濃守卒去之事」には,「…終に永禄四年林鐘廿二日に御逝去されける。其形勢媿事也。夫より藤井豊後守と内談して,往年の秋まで隠といへども,終に信玄之洩聞。信玄大きに悦び…(中略)…業政一人箕輪に元住して猛威をふるひ,数万の軍兵を持度々責るといへどもいまだ落ちず。業政病死せば子息右京進父におとらぬ勇士なれ共,高教業政に及ぶべからず。此時上野国を討取らずんば何の時か名を顕さん。」とある。

大河ドラマでは,長野業政と真田幸隆との交流・離別場面のみで,武田信玄との対決シーンまで進んでいない。今後のことはドラマで描かれるか不明であるが,長野業政はこれまでの真田幸隆との温かいシーンだけでなく,武田信玄が軍事的・政治的に脅威と感じていた人物であるのである。

長野業政の墓(長純寺):群馬県高崎市箕郷町長純寺にある長野業政の墓碑には以下のように記されている。「(中央)当寺開基一盛長純大居士神儀,(右側)永禄四年辛酉年箕輪城主長野信濃守信業公之塔,(左側)六月後一日,当時十三代実山真叟造立之」とある。「信業」とあるのは,おそらくは自分の死を隠すために,わざと業政の父親の名前を記したと考えられるほか,没年(生年も)については諸説ある。

墓碑の右側に立っている供養塔は,「箕輪城主始武士団物故者塔」と記されている。昭和60年(1985)に長野業政墓前で供養したときのものである。

長純寺の開基堂には,長野業政の像がある(市指定文化財;昭和48年)。

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長純寺(googleマップ):http://maps.google.com/maps/mm?hl=en&q=%E9%95%B7%E7%B4%94%E5%AF%BA&ie=UTF8&ll=36.398591,138.94083&spn=0.00174,0.003288&t=h&z=18&om=1

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管理人プロフィール

出身地:群馬県前橋市

履歴:高校卒業後,日中学院より中国に3年間留学。印刷関連会社勤務を経て,日本大学通信教育部(史学専攻)から日本大学大学院文学研究科史学専攻(博士前期課程)へ。日本大学大学院文学研究科東洋史学専攻(博士後期課程)満期退学。博士(文学)

現職:非常勤講師ほか

専攻:清朝史・満族史・東北アジア民族史・東アジア史及び満洲語文書資料。

タイトルの“tere inenggi”とは満洲語で“その日”という意味です。

現在,歴史学・東洋史・中国語(漢語)・コンピュータ情報リテラシー等の講師をしてます。講義では,できるだけ多様な視座を提供したいと模索中です。

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