tere inenggi

研究(満族史・清朝史・東アジア史)や講義(歴史学・東洋史・中国語[漢語]・コンピュータ)等の備忘録

「新選組!」関係

近藤勇の墓(龍源寺):東京都三鷹市大沢

近藤墓03新選組局長の近藤勇(1834−1868年)は,もと宮川勝五郎といい,多摩郡上石原村(現・調布市野水)の出身である。

15歳で天然理心流の試衛館に入門する。近藤周助に認められ,まず周助の実家・島崎家に養子入り(島崎勝太と称する)し,のちに近藤家に養子入り,近藤勇と名乗る。

慶応4年(1868)4月25日,近藤勇は板橋宿にて斬殺される。

首は板橋で晒されたのち京都三条河原に送られて再び晒された。近藤斬殺のとき,近藤勇の養子である近藤勇五郎は,たまたま養父の処刑を目撃し,首のない遺骸を龍源寺まで運んで埋葬したと伝えられている。

戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。近藤勇の墓は,龍源寺以外にも板橋など数ヶ所存在している。

近藤勇の墓01この龍源寺には,近藤勇の胸像(下写真)や天然理心流の碑などが建てられている。天然理心流は,近藤勇の子孫が継承し,現在でも多摩地区で指導している。

近藤勇の墓と生家跡は調布市と三鷹市の市境に位置している。余談であるが,小生の教習所の路上コースであった。

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龍源寺の地図

佐藤彦五郎新選組資料館:東京都日野市日野本町

佐藤彦五郎新選組資料館日野宿本陣の南側に現在でも佐藤彦五郎の子孫が住んでいるが,2006年4月23日,その子孫である佐藤福子さんが佐藤家に伝わる新選組の資料を展示した「佐藤彦五郎新選組資料館」をオープンさせた。

当該資料館の展示品は,姻戚関係にあった土方歳三に関係するものが多く,近年では土方歳三愛用の横笛が発見されたりしているが,やはり毎年土方歳三の命日にだけ「開帳」される市村鉄之助が箱館より持ち帰った歳三の写真が白眉であろう。

同館では,館長みずから展示品の解説(約15分)をおこなうなど,アットホームな資料館である。

HP内には館長のブログ「福子だより」もあり,佐藤彦五郎・土方歳三・近藤勇にまつわるエピソード,あるいは所蔵品にまつわるお話なども紹介されている。

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佐藤彦五郎新選組資料館HP:http://satoshinsen.gozaru.jp/

佐藤彦五郎の墓(大昌寺):東京都日野市日野本町

佐藤彦五郎墓佐藤彦五郎(1827−1902年)は諱(いみな)を俊正(としまさ)といい,日野宿の下佐藤家に生まれた。

佐藤彦五郎の妻はのぶといい,土方歳三の姉であったことは有名であるが,彦五郎の母まさも土方歳三の叔母であり,日野宿の佐藤家と石田村の土方家とは二代にわたって強い絆で結ばれた姻戚関係にあった。

24歳のときに,当時多摩地域で隆盛にあった天然理心流の近藤周助に入門し,免許皆伝までに通常10年かかるところを4年ほどで修得した。「ドラマではユニークなキャラクターとして描かれ」ていたが,「実像は天然理心流の極意皆伝にまで至り義侠心にとんだ人」(ともに墓前に置かれた訪問帖に書かれた子孫の言葉)であったという。

小野路村(現・町田市小野路)の小島鹿之助が近藤勇と義兄弟の契りを結ぶと,佐藤彦五郎もまた近藤勇と義兄弟の杯をかわした。

近藤勇や土方歳三が浪士組として京に上ると,佐藤彦五郎は近藤らに支援を続け,新選組結成後も有力な支援者であることに変わりはなかった。

戊辰戦争で近藤らが甲陽鎮撫隊として出発すると,彦五郎も春日隊を結成し是に加わった。しかし,敗れて西軍(官軍)が迫ると捕縛を逃れるために身を隠した。のち日野宿70数名の嘆願により公務に復帰した。

佐藤彦五郎墓の訪問帖高幡不動尊境内にある「殉節両雄之碑」建立にあたっては,小島鹿之助とともに尽力した。その後,明治11年(1879)初代南多摩郡長となり,明治35年(1902)に76歳で死去した。

上写真の左下に見えるプラスチックケースは訪問帖(下写真を参照)。

日野宿本陣:東京都日野市日野本町

日野宿本陣正門日野宿本陣は,もと佐藤彦五郎邸であった。

甲州街道の中宿には本陣(西側;佐藤隼人家/上佐藤家)と脇本陣(東側;佐藤彦右衛門家/下佐藤家)があり,佐藤彦五郎邸は下佐藤家であった。本陣と脇本陣の敷地内は自由に往来が出来たという。

嘉永2年(1849),大火によって佐藤家のもとの母屋が焼失し,家人が殺される事件がおこった。

このため,佐藤彦五郎は10年かけて母屋を再建するとともに,多摩の政情不安定さに対処するためにみずから天然理心流の近藤周助(近藤勇の義父)に入門するとともに,あわせて長屋門を改修して道場(現・駐車場;駐車場脇に記念碑あり)を開設した。

この道場に,近藤勇・土方歳三(佐藤彦五郎の義弟)・井上源三郎・沖田総司たちが集まり腕を磨いた。

建物の西側(下写真の右側)には若き日の土方歳三が昼寝をした部屋や,土方歳三から遺品を託されて箱館から脱出した市村鉄之助が2年間かくまわれたといわれる部屋がそのまま残されている。

日野宿本陣なお,この建物は,戦後佐藤家から宮崎家(材木商)に払い下げられた。のち宮崎家は蕎麦屋「日野館」として営業していたが,平成16年(2004)1月に大河ドラマ放映にあわせて日野市に管轄が移され日野本陣として公開された。

建物の奥には,日野市観光協会が入っている。

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日野本陣HP:http://makoto.shinsenhino.com/arcs/0200-yukari/0210-honjin/

井上源三郎資料館:東京都日野市日野本町

井上源三郎資料館新選組六番隊組長であった井上源三郎(1829−1869年)の生家は,2004年1月「井上源三郎資料館」としてオープンした。

日野市では,それまで土方歳三資料館や高幡不動尊など,京王線高幡不動駅側でしかファンが詣でる場所がなかったが,NHK大河ドラマ「新選組!」の放映にあわせるようにJR日野駅側の「井上源三郎資料館」「日野市立新選組のふるさと歴史館」「日野宿本陣」「佐藤彦五郎新選組資料館」が開館し,京王線側とあわせて「日野市内の新選組1日観光コース」ができあがることとなった。

さて,井上源三郎は1689年1月,鳥羽伏見の戦いにおいて,淀堤千両松で戦死した(享年40)。源三郎に同行していた甥の井上泰助(当時12歳)は,源三郎の首が敵の手に渡らないようみずから担いで淀城まできたところ,江戸への退却命令が出たので,泰助はやむなく城下のお寺の山門に源三郎の首と刀を埋めて江戸へ引き上げた。

井上源三郎旗その寺院について,井上家では欣浄寺(ごんじょうじ)と記憶していたが,戦後の聞き取り調査では「記憶違い」とされていた。なぜなら「欣浄寺」とは井上家裏手にある寺院の名称だったからである。

ところが,調査を進めていくと井上泰助が源三郎の首を埋めたのは,淀城下にある欣浄寺だったことがわかった。おそらくは,退却途中の泰助が実家裏手にある寺院と同じ名称なので,ここなら大丈夫だろうという気持ちで埋めたといわれている。

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井上源三郎資料館HP:http://www.hinocatv.ne.jp/~i-genzaburo/

井上源三郎の墓(宝泉寺):東京都日野市日野本町

井上源三郎碑宝泉寺は臨済宗鎌倉建長寺派。

井上源三郎(1829−1869年)は,諱を一武(かずたけ)といい,新選組六番隊組長であった。八王子千人同心・井上藤左衛門の三男として日野宿に生まれた(生家は,現在「井上源三郎資料館」)。

慶応4年(1868)1月4日,鳥羽伏見の戦いのさなか,淀堤千両松で銃弾に倒れた。享年40。

戒名,誠願元忠居士。

なお,宝泉寺本堂東側(駐車場脇)には「井上源三郎碑(顕彰碑)」(写真上)が昭和46年(1971)に建立されている。

井上源三郎の墓見学コースとしては,同寺境内(駐車場)に入るとまず顕彰碑が目に付く。さらに顕彰碑に向かって左側を向くと浅葱色に染められた旗がたなびいている。そこが井上源三郎の墓である。

写真下に写っているプラスチックケースは,ファンの訪問帖。このようなノート類は,新選組関連の史跡に点在しており,今更ながら根強いファンがいることを思い知らされる。なお,井上源三郎の墓は,写真右端。

今年2008年9月27日(土)午前10時より,宝泉寺において「新選組井上源三郎140回忌法要」がとりおこなわれる。

新選組のふるさと歴史館:東京都日野市日野本町

新選組のふるさと歴史観:正面写真8月31日(日)まで企画展示「鉄砲からみた近代の夜明け」(下写真)が開催されている。

新選組の土方歳三・井上源三郎・佐藤彦五郎らが生まれ育った日野は,これまでまとまった観光資源に乏しい場所であったが,2005年(平成17)4月,NHK大河ドラマ(2004年)放映を期に「新選組のふるさと歴史館」が誕生した。

同館では「情報配信サービス」をおこなっており,まず登録するとさまざまな特典(特別展招待券1枚,登録証提示で50円割引,紹介者割引など)がうけられ,ポイントを貯めると記念品がもらえる。

新選組のふるさと歴史観:企画展示チラシ地元ボランティアの方が積極的に解説をおこなっているなど,日野市ならではの資料館の特徴がこちらにもあらわれている。

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日野市立新選組のふるさと歴史館HP:http://www.city.hino.tokyo.jp/shinsenr/

土方歳三資料館:東京都日野市石田

土方歳三資料館土方歳三の墓のある石田寺から西へ5分ほど歩いた万願寺交差点近くに土方歳三生家がある。

平成2年(1990)に土方歳三の兄の子孫が生家に併設して資料館を開き,平成17年(2005)に現在のスペースに改装された。

もとより個人での運営のため,毎月第一・第三日曜日の正午から午後4時の開館(入館料500円)であるが,これらは同じ日野市の「井上源三郎資料館」や「佐藤彦五郎新選組資料館」と歩調を合わせてる。

新選組の袖章(唯一の現存品)や池田屋事件の時に身につけていた鎖帷子などがよく知られているが,それ以外にも多くの必見の展示品がある。

土方歳三・銅像(土方歳三資料館内)資料館で販売しているグッズはオンラインショッピングが可能であるが,ここは是非現地におもむいて手に入れたいものである。

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土方歳三資料館HP:http://www.hijikata-toshizo.jp/

土方歳三の墓:石田寺(東京都日野市石田)

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明治2年(1869)5月11日に箱館で戦死した歳三はこの墓には眠っていない。いわゆる「引き墓」である。

戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」。

土方歳三の墓は,全国で6ヶ所ほどあるが,この生家近くの石田寺(せきでんじ)にある墓は,山門そばのカヤの木(樹齢約400年)の南側に位置している。生家跡に建つ土方歳三資料館が開く毎月第一・第三日曜日になると,特に訪れる人が多く,小生が訪れたときにもファンが線香を手向けていた。

同寺の境内には,明治100年を記念して,当時の土方家の当主が建てた「土方歳三義豊之碑」が立つ。

境内に立つ「新選組檀家以外通行止め」と書かれた立て札が印象に残っている。

殉節両雄之碑:高幡不動尊(東京都日野市高幡)

殉節両雄之碑

両雄とは,新選組局長近藤勇(1834−1968年)と副長土方歳三を指す。明治9年銘,明治21年建立。

「殉節両雄之碑」は,小島鹿之助が著した「両雄士伝」をもとに,大槻磐渓(漢学者;大槻玄沢[杉田玄白・前野良沢の弟子]の子)が撰文し,松本順(元幕府侍医;原名松本良順;明治初年改名)が本文を,松平容保(旧会津藩主)が篆額を記した。

篆額は当初,前将軍徳川慶喜を予定していたものの,慶喜はうつむいて落涙するのみで,書くとも書かないとも言わなかったというエピソードがある。

新選組は,多摩の人々にとっては地元と密接に結びついた組織であったが,明治新政府にとっては「宿敵」「逆賊」であった。明治7年になって,始めて新政府に刃向かった人々の祭祀・慰霊が許されたことから,日野宿の佐藤彦五郎らが中心となって近藤・土方の顕彰碑が高幡不動尊境内に建立されることとなった。

しかしながら,碑は完成したものの,近藤・土方ら新選組が幕府に忠節を示した内容であったため建設の許可が下りず,明治21年になってようやく建てられたのである。

なお,高幡不動尊・奥殿には,土方歳三の旗(「東照大権現」旗)ほか新選組関連資料が展示されている。

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高幡不動尊公式HP:http://www.takahatafudoson.or.jp/index.html

高幡不動尊「殉節両雄之碑」:http://www.takahatafudoson.or.jp/sannai/build/ssk_06.html

 

土方歳三像:高幡不動尊(東京都日野市高幡)

土方歳三像:高幡不動尊土方歳三(1835−1869年)の生家・土方隼人家の菩提寺である関係から,1995年(平成7)に高幡不動尊境内に建てられた。

新選組は,現在でこそ人気があるが,維新期から戦後すぐまでの一般社会においては,依然として逆賊のイメージが強かった。

新選組が一般的に認知されるのは,司馬遼太郎『燃えよ剣』(1962−1934年,『週刊文春』に連載)からである。

これらの認知をうけて近藤勇・土方歳三・井上源三郎の銅像建立が計画されるが,同時の日野市の上層部から「暴力団まがいの人達の像を建てるのは文化都市日野市に相応しくない」との理由で取りやめとなった経緯がある。

土方歳三像の後側には,石田散薬(土方家の家伝薬)の原料であるミゾソバ(タデ科)が植えられている。

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高幡不動尊公式HP:http://www.takahatafudoson.or.jp/index.html

高幡と土方歳三:http://www.takahatafudoson.or.jp/index_hijikata.html

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管理人プロフィール

出身地:群馬県前橋市

履歴:高校卒業後,日中学院より中国に3年間留学。印刷関連会社勤務を経て,日本大学通信教育部(史学専攻)から日本大学大学院文学研究科史学専攻(博士前期課程)へ。日本大学大学院文学研究科東洋史学専攻(博士後期課程)満期退学。博士(文学)

現職:非常勤講師ほか

専攻:清朝史・満族史・東北アジア民族史・東アジア史及び満洲語文書資料。

タイトルの“tere inenggi”とは満洲語で“その日”という意味です。

現在,歴史学・東洋史・中国語(漢語)・コンピュータ情報リテラシー等の講師をしてます。講義では,できるだけ多様な視座を提供したいと模索中です。

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